教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑥

  「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する④から紹介しています講演の続きです。

 

 

反戦反核・反差別
21世紀につなぐヒロシマからのメッセージ

 

                下 原 隆 資 さ ん(元・被爆教職員の会)

 

■育ったところの言葉で話す

 

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する④

 

■原爆の死者の数

 

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑤

 

■自分でしたことは言えなかった


 こういう話は実は簡単にできたんです。生徒にみな言うたんですね。だからゴミのように死体があったんだと言えました。ところが自分でやったことは言えなかったんです。


 その日に私は逃げました。ところが次の日に、逃げて医者に手当をしてもらったんです。後で詳しく言いますけれども。次の日に、手当をしてもらおう思うて防空壕から近くの病院に行ったら、逃げて来た人、何百人とおりました、みんな死んどるんですよ。廊下に寝とると思うとったら全部死んどるんですよ。私が思ったのは、こりゃあ自分も死ぬるんだと。誰も知らんところで死ぬ。知った者はおりません。こんなところで死にたくないと思ったんです。どうせ死ぬるんなら親のところで死にたい。ところが私が育ったのは広島の町じゃないんです。広島湾に島があるんです。そこまで帰らにゃいけません。帰るのには港に出にゃいけません。港は東の海岸にあります。私の逃げておったのは西の海岸です。ですから港に出ようとして町を歩いたんです。これが今でもものすごい心の傷に残るんです。


 最初は、防火用水の所に3人うつ伏せに死んどりました。わっ、人が死んどる。びっくりはしたんですよ。ところがもうちょっと行ったら20人ぐらい倒れとんです。あれぇえらい死んどる。ところがそれから歩いて行ったら死んだ人が点々とおるんです。しまいに当たり前になります。人間というのは神経が太うなるんです。ただ残念なのは方向がわかりませんのでどうやって帰ろうか。おっ電車の線路へ出た思って、電車の線路へ出て、電車の線路を伝って歩き始めてびっくりしたんです。爆心地の近くまで行ったら、電車の線路の上へ死んだ人が何百何千と折り重なって死んどるんです。歩けませんね。しかし、もう神経マヒしてる。そのまま歩くんです。人の上を。私はそのときには履いとるものはありません。はだしです。上は何も着とりません。はだしでそのまま死んだ人の上を歩いたその感触だけはいまだに忘れらないし、思い出したくありません。


■私には話す責任がある(1)


 ■友だちをおいて逃げた私


 こんなことがあって、私はよう話しなかったんですよ。ただそんな話をしなくちゃいけんと同級生は言いました。私の同級生は工場におって、3km離れておりますから、直接被爆じゃないんです。ただ3分の1以上死んどります。ほとんどガンです。その日広島へ入ってですね、もう死んでしまったんですが、彼らが、「おまえは話さにゃいけんだろ」「じゃ自分たちは何か」と言うたら、絶対に話さんのですよ。もうあんなことは忘れたい言うて。じゃあ私は話さにゃいけんのかと聞いたら、「おまえは、友だちと一緒におったろう。それをおいて逃げた。その責任がある」。その通りなんです。実は私は一緒におった友だちを、友だちは外におりました。自分の傷に気がついた瞬間に友だちの事を忘れて逃げてしもうた。だからその友だちは骨も何にもわかりません。これは私の責任でしょう。背負っていくつもりです。友だちのお父さんとお母さんはしょうがなかったんじゃけんそんなこと思うてくれるな言いましたけれども、これは自分が背負うていくことじゃ思うております。だからいくらつらくったって、私が話すのつらくったって、友だちのつらさを考えたら。私が話す理由はこれ1点です。


 ■後障害のこと


 もう一つは実は私は原爆でケガをしとります。顔も切っとりますが、口の中も切っとりますから、15歳から上の歯はありません。吹っ飛んだんですよ。だから入れ歯です。ただしこんなものは治ったらたいしたことはないんですよ。


 入れ歯はちょっと便利が悪かったんです。若いときには、これは便利が悪いなあ思てちょっと悲観しとったんですが、後にですね、悟ることがありまして、入れ歯の方がいいわ思いだしたんです。というのは、私の子どもがおりますが、習って来て「父ちゃん大変じゃったね」言うて同情してくれるんです。そのたびに言うたのは、「うん、入れ歯というのは便利がちょっと悪いが、おまえらよりいいわ。おまえらすぐ歯がいとうなるじゃろ。父ちゃんは15歳からいっぺんだって歯がいたいことはない」言うたんです。つい14、5日前にも、下の子が帰ってきてくれておりますが、朝起きて来て「今日会社は休みじゃ。歯いたい。歯医者へ行く」言うて、ひいひい言いよりますから、「それみい。おまえら歯がいとうなる。父ちゃんの方がええわ」言うたんですが、治ってしまえば何ということはないんですよ。


 顔の傷だってそのときのは人の前へよう出んと思うとったんですが、今は傷もわざわざ整形せずに残しております。残しておって得したと思うことがあるんですよ。これだって逆に考えればいいことなんですよ。顔を覚えてもらえますね。悪いことをしたときにはちょっと損でしょう。顔を覚えられますから。だけどそうでないときには、外国に行って10年振りの会うた人でも「おまえ元気か」言うてくれるんですよ。「おまえの顔だけ覚えられる」言うんです。得した思いました。日本の町を歩いとります。最初に京都だったんですけど、15年ぐらい前に京都の町を歩いとったら、知らん人が「お元気ですか」と声をかけてくれて、「誰だったですかいね」といったら、「中学生の時に広島で話を聞いたんですよ」言われてものすごくうれしかったんです。私の話を覚えとってくれた証拠なんです。「よう覚えとってくれたね」言うたら、「いやぁ、先生の顔だけは忘れられん」言われました。これ、得しとると思うんですよ。


 ですが、しんどいのは、よく知らない人が原爆の後遺症と言いますが、実は後遺症じゃないんです。後障害と言うのが正しいんです。何年かたっても障害が出てきます。これは放射能のせいです。一番多いのが、腫瘍が出てくるんです。腫瘍というのは身体の腫れ物でしょう。体中に出てきたら、これは一般的にガンとよんでおります。取れんでしょう。体中切って取ったら死にますよ。もうそうなったら終わりです。これでたくさん死んどります。ただ私の場合には2カ所出たんです。ところがお医者さんが「おまえ運がいいわ」。腫瘍ができて運がいいわ言われたって。「先生何言いよんね」言うたら、「たった2カ所よ。簡単に切って取れらあ」。10年くらいして取りました。ですが、すぐ取れずに29のときに取ったんですが、そのときに詳しく調べた結果、「おまえもう45ぐらいになったら目が見えんようになる」言いよったんです。これは原爆白内障というんです。こういう人はたくさんおるんです。目がにごるんです。実はこれは、切って取って、その濁った液を出して、そこへレンズを入れたら見えるようになるんですよ。「45ぐらいで覚悟しとけよ。それから50を過ぎたらたぶん右側の指から関節が動きにくうなるだろう」。それを覚悟しとったんです。ところが目の方はいまだにいいです。お医者さんも、つい10日ぐらい前に精密検査してもらったんですが、「あんたの目はおかしいな。老眼にもなってないわ。32歳からひとつも変わらん。成長せん目じゃのう」言われました。ただ、関節の方は50から言うたんですが、57から右の中指が、ぎゅっとものを握ったら、伸ばしたら痛いんですよ。これなんか医者に言うたら、医者の言うのには「いいじゃない」。そんなお医者さんおらんでしょう。「治してやろう」言うのかと思うたら「いいじゃない」言うんですよ。「先生そりゃあいけんわ。そんなん言うお医者さんおらんわ」言うたんです。残念ながら放射能によってなった病気は治す方法がないんです。で言うのが「7年遅うなったんじゃからいいじゃないの。まあがんばりんさい。」「先生、次どうなるん?」言うたら、「たぶんひじが痛うなるじゃろう」。「その後は?」言うたら「肩じゃ」言いました。肩からこっちの、ですからこっち(右)の肩になります。後こっち(左)の肩にいったら死ぬるんだと思います。心の臓をとおりますね。これ死ぬんだろう。これ死ぬ可能性があります。ただし今度は下にいって腰にきます。長生きするだろう。実は14、5日前にちょっとこっち(右)の腰がおかしいというて行ったんです。そしたらお医者さんが「おめでとうございます」。腰が痛うなったんですよ。そんなことはないでしょう。「もう絶対横にいかんわ。今度ひざにいって足にいくだろう」言うんです。「だからあんたは長生きするよ」と。だけどちょっとしんどいですね。

                          (つづく)