小学校3・4年生の教科書に登場する故事成語の第5回は「五十歩百歩」です。
五十歩百歩
「五十歩百歩」の読み方
ごじっぽひゃっぽ
※ 熟語の「十」は「じっ」と読むことになっています。
しかし、1966年、NHK放送用語委員会で「二十世紀」の読みについて、「じっ」と「じゅっ」の両方の読み方を認めています。時代の変遷とともに、「ごじゅっぽ」と発音するのも許容されるようになるかもしれません。
「五十歩百歩」の意味
少しの違いはあることはあるが、本質的には同じことだという意。(広辞苑)
「五十歩百歩」の使い方
テストで25点を取った生徒が20点の生徒を見下しているが、どちらも赤点であり五十歩百歩だ。
※ 差が大きすぎる者同士やすぐれた者同士に使うのは誤りです。
「五十歩百歩」の語源・由来
出典は『孟子』。
梁恵王曰、「寡人之於国也、尽心焉耳矣。河内凶、則移其民於河東、移其粟於河内。
河東凶、亦然。察隣国之政、無如寡人之用心者。隣国之民不加少、寡人之民不加多、何也。」
孟子対曰、「王好戦。請以戦喩。填然、鼓之、兵刃既接。棄甲曳兵而走、或百歩而後止、或五十歩而後止。以五十歩笑百歩、則何如。」
曰、「不可。直不百歩耳。是亦走也。」
曰、「王如知此、則無望民之多於隣国也。不違農時、穀不可勝食也。数罟不入洿池、魚鼈不可勝食也。斧斤以時入山林、材木不可勝用也。穀与魚鼈不可勝食、材木不可勝用、
是使民養生喪死無憾也。養生喪死無憾、王道之始也。」
(書き下し文)
梁の恵王曰はく、「寡人の国に於けるや、心を尽くすのみ。河内凶なれば、則ち其の民を河東に移し、其の粟を河内に移す。河東凶なれば、亦然り。隣国の政を察するに、寡人の心を用ふるがごとき者無し。隣国の民少なきを加へず、寡人の民多きを加へざるは、何ぞや。」と。
孟子対へて曰はく、「王戦ひを好む。請ふ戦ひを以て喩へん。填然として、之に鼓し、兵刃既に接す。甲を棄て兵を曳きて走る、或いは百歩にして後止まり、或いは五十歩にして後止まる。五十歩を以て百歩を笑はば、則ち何如。」と。
曰はく、「不可なり。直だ百歩ならざるのみ。是れも亦走るなり。」と。
曰はく、「王如し此を知らば、則ち民の隣国より多きを望むこと無かれ。農時を違へざれば、穀は勝げて食ふべからざるなり。数罟洿池に入らざれば、魚鼈は勝げて食ふべからざるなり。斧斤時を以て山林に入らば、材木は勝げて用ふべからざるなり。穀と魚鼈と、勝げて食ふべからず、材木勝げて用ふべからざれば、是れ民をして生を養ひ死を喪して憾み無からしむるなり。生を養ひ死を喪して憾み無きは、王道の始めなり。」と。
(現代語訳)
梁の恵王が言った、「私めが国を治めるにあたっては、とにかく民衆に心を尽くすようにしています。河内地方が凶作のときは、そこの民衆を河東地方に移し、河東地方の穀物を河内地方に移します。河東地方が凶作のときもまた同様にします。隣国の政治をよく観察してみても、私めが民衆を気遣ってやっているようなことをしている者はいません。それなのに隣国の人口が減らず、私めの国の人口が増えないのは、なぜですか。」
孟子はこうお答えした、「王は戦いを好んでおられます。どうか戦いで喩えさせてください。太鼓が打ち鳴らされ、既に武器は火花を散らしています。恐怖に襲われた兵士が、鎧を捨て、武器を引きずって敗走します。あるものは百歩逃げてからその場に止まり、あるものは五十歩逃げてからそこに止まりました。五十歩逃げたことで、百歩逃げたものを嘲笑したとしたら、これはどうですか。」
「よろしくありません。ただ百歩でないだけです。この者もまた逃げたことに変わりありません。」
「王がもしこのことを御解りになるのなら、人口が隣国より多いことを望んではなりません。農作業の時期を違えないように民衆を使役すれば、穀物は食べても食べきれないほど多く取れるようになるでしょう。目の細かい網をもって沼や池に入らないようにすれば、魚やすっぽんは食べても食べきれないほど多く取れるようになるでしょう。木を切る時は、その適した時期に切るようにすれば、材木は使っても使い切れないほど多く手に入るようになるでしょう。穀物や魚、すっぽんが食べても食べきれないほど多く取れ、材木が使っても使い切れないほど多く取れれば、民衆は家族を養い、死者を厚く弔って心残りがないようになります。家族を養い、死者を厚く弔って心残りがないようにするのは、王道の第一歩です。」
「五十歩百歩」の蘊蓄
「五十歩百歩」の類語
五十歩を以て百歩を笑う(ごじっぽをもってひゃっぽをわらう)
※「五十歩百歩」の出典『孟子』より
一寸法師の背比べ
猿の尻笑い
大同小異
どんぐりの背比べ
似たり寄ったり
目糞鼻糞を笑う
「五十歩百歩」は、通常「たいした違いがない」という意味で使われます。しかし、その小さな違いにこだわった使い方もあります。2021年3月21日の朝日新聞「天声人語」です。
ビジネスの世界で「千三つ」と言えば、成功の確率が低いことの例えである。千の新製品が出ても、長く残るのはせいぜい三つくらい、などとよく言われる。千社の企業があっても株式公開までこぎ着けるのは、やはり三つくらいとも▼アイデアはたくさんあれど、玉石混淆の「玉」はわずかで「石」がごろごろ。それは独創性が求められる多くの場面で言えるのではないか。話は東京五輪・パラリンピック開閉会式の演出を統括していた佐々木宏氏のことだ▼CMの世界では数々のヒット作を生んだ方らしいが、開会式のアイデアは石も石、眉をひそめたくなるような内容だった。昨年3月、女性タレントを豚に見立てる演出を提案した。オリン「ピック」と「ピッグ」をかけたらしい▼まったく笑えないし、ひとの容姿をからかうような発想は下品というほかない。もっともこの案は、チーム内で示されるとすぐにメンバーたちから批判され、つぶれている。きちんとチェック機能が働いたとも言えるのではないか▼その点では、五輪組織委員会の会長だった森喜朗氏の場合とは違う。公式の場での森氏の女性蔑視発言に対して、その場で誰も止めなかったばかりか、笑いまで起きたという。「五十歩百歩」の言葉があるが、五十歩と百歩の違いを冷静に見なければいけないときもある▼内部で自由にアイデアを出し合うブレーンストーミングの場では、ときにどうしようもない石も出る。佐々木氏の件もそれに近かったのだろうか。