教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

難解、文科語。たとえば「生きる力」①

そもそも難解な「文科省用語」

 

「目標を実現するにふさわしい探究課題については,学校の実態に応じて,例えば,国際理解,情報,環境,福祉・健康などの現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題,地域の人々の暮らし,伝統と文化など地域や学校の特色に応じた課題,児童の興味・関心に基づく課題などを踏まえて設定すること。」

 

上の文は、現行学習指導要領において、総合的な学習の時間の課題内容を示した文です。

 

精査します。

 

探究課題については……を踏まえて設定すること」が、この文の骨組み(主述にあたる部分)です。

……」部分に踏まえるべき内容が書かれています。「現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題」「地域や学校の特色に応じた課題」「児童の興味・関心に基づく課題」の3つです。

 

整理すると、「探究課題については現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題地域や学校の特色に応じた課題児童の興味・関心に基づく課題を踏まえて設定すること。」となります。

 

現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題」とは何かというと、「例えば,国際理解,情報,環境,福祉・健康など」という直前の修飾部が具体的内容になります。

ここには「国際理解」「情報」「環境」「福祉・健康」の4つが示されています。

しかし、「現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題」=「国際理解,情報,環境,福祉・健康」ではありません。

よく見ると、「例えば国際理解,情報,環境,福祉・健康など」と書かれています。「例えば…,…,…,…など」という表現は、「…,…,…,…」は単なる例示であることを意味します。つまり、「現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題」は、例示した4つのどれかであってもいいし、それ以外のものであってもいいと言っているのです。

 

地域や学校の特色に応じた課題」についても、同じことが言えます。

地域の人々の暮らし,伝統と文化など」と、2つの具体を示した後に「など」を付けています。「地域の人々の暮らし,伝統と文化」は「地域や学校の特色に応じた課題」の例示に過ぎないということです。

 

先ほど整理した文の原文は、「探究課題については現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題地域や学校の特色に応じた課題児童の興味・関心に基づく課題などを踏まえて設定すること。」です。

つまり、「現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題」「地域や学校の特色に応じた課題」「児童の興味・関心に基づく課題」の3つも、探究課題を設定する際に踏まえるべき例示に過ぎないことになるのです。

 

この文は、いったい何を言おうとしているのでしょうか。

目標を実現するにふさわしい探究課題については,学校の実態に応じて,例えば,国際理解,情報,環境,福祉・健康などの現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題,地域の人々の暮らし,伝統と文化など地域や学校の特色に応じた課題,児童の興味・関心に基づく課題など踏まえて設定すること。」具体的内容は、「学校の実態に応じて」考えてください。参考までに考える視点を例示しておきます。--とまあ、そんなところでしょうか。

 

実は、こうした文は、文部科学省の文章に登場する典型的な書きぶりの文です。はっきり言って、わかりにくい文が多いです。

そこにあるのは、「抽象」と「具体」の問題です。

 

文科省の発信する文章は、自然環境や人口密度や文化などが異なる全国津々浦々の地で読み解かれます。

その際、あらゆる違いを超えて共有されるための言葉は、必然的に「抽象語」になります。

 

しかし、「抽象語」だけでは教育活動になりません。

先の例で、「目標を実現するにふさわしい探究課題」を設定せよと言われても、それだけで学習活動が組み立てられる教室はいかほどあるでしょう。

 

学校現場が欲しているのは「具体語」です。

先の例では、「国際理解,情報,環境,福祉・健康」の部分がもっとも具体的であり、活動のイメージがつかめます。事実、この20年来、総合はこの4つのテーマを中心に展開されてきました。

 

目標を実現するにふさわしい探究課題」=「国際理解,情報,環境,福祉・健康」とすれば明快で分かりやすいです。

しかし、そうすることによって多くの学校で賛意が示される一方で、「それしかないのか」「それ以外は駄目なのか」という異議が当然のごとく出てきます。

「具体語」は、「抽象語」が内包する世界を狭めてしまうのです。

 

そこで登場するのが、「など」(あるいは、「等」)です。

など」の存在は、受け手と送り手の双方にメリットがあります。

受け手の学校サイドでは、示されている具体が例示だということになれば自由裁量の余地が広がります。

そして、送り手の文科省にとっては、異議に対する「安全弁」の役割を果たしていると思われます。(当事者でないので断言はしませんが)

その結果として、わかりにくい文・文章があふれることになります。

 

文科省用語(略して「文科語」)というのは、ことほどさように、そもそも難解なものなのです。

 

次回からは、そもそも難解な「文科語」をさらに超難解にしている例として「生きる力」を取り上げます。