教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

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日本語探訪(その136) 故事成語「明鏡止水」

小学校のうちに知っておきたい故事成語の第58回は「明鏡止水」です。

 

明鏡止水

 

「明鏡止水」の読み方

めいきょうしすい

 

「明鏡止水」の意味

(くもりのない鏡と静かな水との意から)邪念がなく、静かに澄んだ心境。(広辞苑

 

「明鏡止水」の使い方

狙いが定まらない。そこで何もかもを忘れて精神を一点に、視覚に集中し、いわば明鏡止水の至境に達しようと、あせる。(開高健『王様キングと私』1985年)
 

「明鏡止水」の語源・由来

「明鏡止水」の出典は、『荘子(そうじ)』「徳充符(とくじゅうふ)篇」です。

 

「徳充符」は、徳が心のうちに充満すると、その符(しるし)が外面に表れるということを、4つの寓話で分かり易く解説しています。1番目の話の中で【止水】が、2番目の話の中で【明鏡】がそれぞれ出てきます。

 

【止水】
人莫鑑於流水而鑑於止水,唯止能止衆止

【読み下し文】

人は流水(りゅうすい)に鑑(かんが)みること莫(な)くして止水(しすい)に鑑(かんが)みる。唯(ただ)止(し)のみ能(よ)く衆止(しゅうし)を止(とど)む。

【現代語訳】

人は流れる水を鏡とはしないで、静止した水を鑑とするのです。それは静止した水のみが物のすがたをそのままに映せるからです。

(聖人は止まっている水のような静かな心を持つのだが、そういった心を持つ者は静けさを求める多くの人々を惹き付ける。)


【明鏡】
鑑明則塵垢不止,止則不明也。久與賢人處則無過。

【読み下し文】

鏡明らかなれば、則(すなわ)ち塵垢(じんこう)止(とど)まらず。止まるは則(すなわ)ち明らかならず。久しく賢人とおれば、則(すなわ)ち過ちなし。

【現代語訳】

鏡に曇りがないのは、塵がつかないからだし、塵がつくと曇る。すなわち、しばらく賢者と一緒にいると、その人に感化されて心に曇りが取れて、過ちがなくなる。

 

宋代の「朱子語類」には、「聖人の心は明鏡止水の如(ごと)し」と「明鏡止水」が1つになって登場しているようです。

 

「明鏡止水」の蘊蓄

「明鏡止水」の類義語

虚心坦懐」きょしんたんかい
心に何のわだかまりもなく、さっぱりして平らな心。また、そうした心で物事に臨むさま。虚心平気。(広辞苑


光風霽月」こうふうせいげつ
[宋史道学伝一、周敦頤](黄庭堅が周敦頤の人品を評した語)心が高明で執着なく、快活・洒落(しゃらく)なこと。(広辞苑


心頭滅却
心頭を滅却すれば火もまた涼し(しんとうをめっきゃくすればひもまたすずし)
(織田勢に武田が攻め滅ぼされた時、禅僧快川が、火をかけられた甲斐の恵林寺山門上で、端坐焼死しようとする際に発した偈げと伝える。また、唐の杜荀鶴の「夏日題悟空上人院」の詩中に同意の句がある)無念無想の境地に至れば火さえ涼しく感じられる。どんな苦難に遇っても、心の持ちようで苦痛を感じないでいられる、の意。(広辞苑


「明鏡止水」の対義語

疑心暗鬼を生ず」ぎしんあんきをしょうず
列子説符、注]疑心が起こると、ありもしない恐ろしい鬼の形が見えるように、何でもないことまでも疑わしく恐ろしく感ずる。疑心暗鬼。(広辞苑


意馬心猿」いばしんえん
煩悩・欲情・妄念のおさえがたいのを、奔走する馬やさわぎたてる猿の制しがたいのにたとえていう語。(広辞苑