小学校のうちに知っておきたい故事成語の第58回は「明鏡止水」です。
明鏡止水
「明鏡止水」の読み方
めいきょうしすい
「明鏡止水」の意味
(くもりのない鏡と静かな水との意から)邪念がなく、静かに澄んだ心境。(広辞苑)
「明鏡止水」の使い方
狙いが定まらない。そこで何もかもを忘れて精神を一点に、視覚に集中し、いわば明鏡止水の至境に達しようと、あせる。(開高健『王様キングと私』1985年)
「明鏡止水」の語源・由来
「明鏡止水」の出典は、『荘子(そうじ)』「徳充符(とくじゅうふ)篇」です。
「徳充符」は、徳が心のうちに充満すると、その符(しるし)が外面に表れるということを、4つの寓話で分かり易く解説しています。1番目の話の中で【止水】が、2番目の話の中で【明鏡】がそれぞれ出てきます。
【止水】
人莫鑑於流水而鑑於止水,唯止能止衆止
【読み下し文】
人は流水(りゅうすい)に鑑(かんが)みること莫(な)くして止水(しすい)に鑑(かんが)みる。唯(ただ)止(し)のみ能(よ)く衆止(しゅうし)を止(とど)む。
【現代語訳】
人は流れる水を鏡とはしないで、静止した水を鑑とするのです。それは静止した水のみが物のすがたをそのままに映せるからです。
(聖人は止まっている水のような静かな心を持つのだが、そういった心を持つ者は静けさを求める多くの人々を惹き付ける。)
【明鏡】
鑑明則塵垢不止,止則不明也。久與賢人處則無過。
【読み下し文】
鏡明らかなれば、則(すなわ)ち塵垢(じんこう)止(とど)まらず。止まるは則(すなわ)ち明らかならず。久しく賢人とおれば、則(すなわ)ち過ちなし。
【現代語訳】
鏡に曇りがないのは、塵がつかないからだし、塵がつくと曇る。すなわち、しばらく賢者と一緒にいると、その人に感化されて心に曇りが取れて、過ちがなくなる。
宋代の「朱子語類」には、「聖人の心は明鏡止水の如(ごと)し」と「明鏡止水」が1つになって登場しているようです。
「明鏡止水」の蘊蓄
「明鏡止水」の類義語
「虚心坦懐」きょしんたんかい
心に何のわだかまりもなく、さっぱりして平らな心。また、そうした心で物事に臨むさま。虚心平気。(広辞苑)
「光風霽月」こうふうせいげつ
[宋史道学伝一、周敦頤](黄庭堅が周敦頤の人品を評した語)心が高明で執着なく、快活・洒落(しゃらく)なこと。(広辞苑)
「心頭滅却」
心頭を滅却すれば火もまた涼し(しんとうをめっきゃくすればひもまたすずし)
(織田勢に武田が攻め滅ぼされた時、禅僧快川が、火をかけられた甲斐の恵林寺山門上で、端坐焼死しようとする際に発した偈げと伝える。また、唐の杜荀鶴の「夏日題悟空上人院」の詩中に同意の句がある)無念無想の境地に至れば火さえ涼しく感じられる。どんな苦難に遇っても、心の持ちようで苦痛を感じないでいられる、の意。(広辞苑)
「明鏡止水」の対義語
「疑心暗鬼を生ず」ぎしんあんきをしょうず
[列子説符、注]疑心が起こると、ありもしない恐ろしい鬼の形が見えるように、何でもないことまでも疑わしく恐ろしく感ずる。疑心暗鬼。(広辞苑)
「意馬心猿」いばしんえん
煩悩・欲情・妄念のおさえがたいのを、奔走する馬やさわぎたてる猿の制しがたいのにたとえていう語。(広辞苑)