教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

歴史教育の周辺(その16) 「歴史は9割が不明」という真実

「歴史は9割が不明」という真実

 

「私」から数えて1代前が父母。

2代前が祖父母。

3代前が曾祖父母。

4代前が高祖父母。

5代前が高祖父母の父母。

 

さて、5代前の「親族」の歴史を語れますか?

 

私の場合、高祖父母の父母が生きたのは江戸末期から明治時代になります。戸籍簿によってその存在を確認することができます。長寿だった曾祖母の話で、人となりにも多少は触れることもできました。

それでも、直接顔を合わせていない祖父、曽祖父、高祖父母、高祖父母の父母の「歴史」など、みんな合わせても1分も語れません。

 

6代前の祖先の存在までは分かっています。しかし、それより前となると、どこに住んでいた誰なのか定かではありません。

私につながるルーツは、せいぜい200年前までしかたどれません。

 

それどころか、ほんとうは父母の「歴史」でさえ、ほとんど知らないのです。

知っていること、覚えていることはほんの断片であり、何年の何月何日に何があったかなど記録に残っているものしか分かりません。

 

 

歴史学習で扱われる大半は、私がたどれるルーツよりも古い時代です。

そこに登場する歴史上の人物は「著名人」ではありますが、生まれた時から「著名人」であったわけではありません。

たとえば豊臣秀吉は名を成す以前は「庶民」ですから、少年期の記録など残っているはずがありません。残っているのは成功後の後付け物語です。ましてや秀吉の父母のことなど、分からなくて当たり前です。

たとえば坂本龍馬は有名ではありますが、中枢の人物でない上に早逝ですから「私ごと」の詳細な記録など残っているはずがありません。

 

文字に残された「歴史」は、有力な学習材です。

しかし、歴史書には編纂者、執筆者の恣意的な意図が垣間見えます。

日記や書簡には客観性が乏しく、記憶違いもままあります。

 

文字以前の歴史は、土や木に聞くことになります。

しかし、考古学の進歩は日進月歩で、10年前の常識が今では陳腐ということもあります。

 

そして、文字や土や木に残されているのは、歴史のほんの一部分でしかありません。ほとんどのものやことは、残されてはいないのです。

 

「歴史は9割が不明」とタイトルを付けましたが、99.9%は分からないのです。

分かっている0.1%の「点」と「点」をつないだとしても、できあがった「線」の大部分は推測です。不確定要素の多い「物語」なのです。

いま語られている「物語」は、新たな「点」が加わることによって大幅に修正されることもあります。

それが歴史というものの偽らざる姿です。

いにしえの歴史を、さもこの目で見てきたかのごとく語ったことが、私にもあります。「点」を「面」にまで誇張して、歴史を意味づけてきたこともあります。そのいくつかは、今では赤面ものです。

「歴史は9割が不明」

歴史学習はこの真実に謙虚でありたいものです。