教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 10月1日

法の日

 

1928(昭和3)年10月1日に「陪審法」が施行され、翌1929(昭和4)年からこの日を「司法記念日」に制定されました。
その後、法務省及び日本弁護士連合会の共同の決議に基づき、法の役割や重要性について考えてもらうことを目的として、1960(昭和35)年にこの日を「法の日」に制定されました。

 

法務省のHPより紹介します。

「法の日」制定の経緯について

1 昭和3年10月1日に陪審法が施行されたことによって、翌年から10月1日は「司法記念日」と定められました。その後、昭和34年10月に開催された裁判所、検察庁及び弁護士会三者協議会において、次のような決議がなされ、「法の日」の制定が提唱されました。
   「国民主権のもとに、自由と正義を守り、世界の平和を維持し、人類の福祉に貢献することはわれわれ日本国民のひとしく理想とし、念願とするところである。これがために、われわれは、法によって社会秩序を確立しなければならない。さらにまた、国際紛争もこの法の支配の原則によって解決されなければならない。よって、ここに、国を挙げて法を尊重し、右の理想と念願を高揚するため10月1日を『法の日』と定めることを提唱する。」
    これを受けて、翌昭和35年6月、政府は、今後10月1日を「法の日」と定め、国を挙げて法の尊重、基本的人権の擁護、社会秩序の確立の精神を高めるための日としました。
2 これに基づいて、裁判所、法務省及び日本弁護士連合会では、昭和35年以来、毎年10月1日からの1週間を「法の日」週間として、全国各地でこの週間の趣旨の徹底を図るため、講演会や座談会など各種の行事を実施しています。

 

「法の日」のもとになっている「陪審法」は、刑事事件について陪審員が評議を行う陪審制を定める法律です。

法務省のHPから陪審裁判について書かれた部分を紹介します。

陪審裁判解説
12人の陪審員
陪審裁判は,国民が司法に参加する制度の一つである。陪審資格者名簿で抽選を重ねて選ばれた12人の陪審員が素人の立場で審理に参加し,犯罪事実の有無を答申する制度である。大正12年に陪審法が制定され,5年の準備期間を経て,昭和3年から昭和18年まで行われた。


陪審裁判に該当する事件
陪審事件は,刑事事件に限定された。死刑又は無期の懲役若しくは禁錮にあたる事件については法律上陪審裁判とされた(法定陪審事件)。長期3年を超える有期懲役又は禁錮にあたる事件については被告人が請求する場合のみ陪審裁判とされた(請求陪審事件)。なお,被告人は陪審を辞退することもできた。


陪審の答申の拘束力
裁判所は,陪審員の答申に拘束されない。したがって,裁判所は陪審員が出した答申を認めず,新しい陪審に付すること(「陪審の更新」という)があった。


陪審判決に対する上訴
陪審の答申を採用して言い渡した判決に対しては控訴は許されないが,適法に陪審を構成しなかった場合など特別の理由がある場合には大審院へ上告することができた。


陪審事件の消長
制度発足から10年も経たないうちに,陪審裁判はほとんど利用されなくなった。
理由については,様々な見解があり,
(1) 裁判官,検事,弁護士の法曹三者は,陪審裁判に対して消極的態度をとったこと。たとえば裁判官は陪審制度を重荷と感じ,陪審請求を取り下げるか,法廷陪審でもそれを辞退するよう勧告することがさかんに行われた。検事は,準備や手続きが煩雑になることから陪審裁判を歓迎しなかった。弁護士もこのような雰囲気を察して被告人に陪審裁判を辞退するように忠告することがあった。
(2) 裁判にかかる費用は,有罪の場合被告人が負担しなければならなかったことで,陪審裁判を辞退する被告人が多かったこと(請求陪審の場合)。
(3) 戦火が拡大する中,労力や費用がかかる陪審裁判が敬遠されたこと。
などが言われている。


陪審の停止
1943年(昭和18年)4月1日
陪審法ノ停止ニ関スル法律」によって陪審制が停止される。
なお,「陪審法ノ停止ニ関スル法律」は,「今次ノ戦争終了後再施行スルモノトシ」(附則第三項)と規定した。その効力は一時停止されたのである。

 

陪審法廷

 

陪審員制度による陪審裁判は、現在の裁判員制度による裁判員裁判の「原型」と言えます。