教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

人権教育教材としての『おくりびと』と『納棺夫日記』

おくりびと』は、2008年に公開された映画です。

滝田洋二郎監督の作品で、第32回日本アカデミー賞最優秀作品賞などを受賞しています。

 

Wikipediaから作品の「あらすじ」を引きます。

プロのチェロ奏者として東京の管弦楽団に職を得た小林大悟。しかし、ある日突然楽団が解散し、夢を諦め、妻の美香とともに田舎の山形県酒田市へ帰ることにする。

就職先を探していた大悟は、新聞で「旅のお手伝い」と書かれたNKエージェントの求人広告を見つける。てっきり旅行代理店の求人と思い込み「高給保障」や「実労時間僅か」などの条件にも惹かれた大悟は面接へと向かう。面接した社長は履歴書もろくに見ず「うちでどっぷり働ける?」の質問だけで即「採用」と告げ、名刺まで作らせる。大悟はその業務内容が実は「旅立ちのお手伝い」であり、具体的には納棺(=No-Kan)と知って困惑するが、強引な社長に押し切られる形で就職することになる。しかし妻には「冠婚葬祭関係」としか言えず、結婚式場に就職したものと勘違いされてしまう。

出社早々、納棺の解説DVDの遺体役をさせられ散々な目に遭い、さらに最初の現場では夏、孤独死後二週間経過した高齢女性の腐乱屍体の処理を任され、大悟は仕事の厳しさを知る。

それでも少しずつ納棺師の仕事に充実感を見出し始めていた大悟であったが、噂で彼の仕事を知った幼馴染の銭湯の息子の山下から「もっとましな仕事に就け」と白い目で見られ、美香にも「そんな汚らわしい仕事は辞めて」と懇願される。大悟は態度を決めきれず、それに腹を立てた美香は実家に帰ってしまう。さらに、ある現場で不良学生を更生させようとした列席者が大悟を指差しつつ「この人みたいな仕事して一生償うのか?」と発言したのを聞いたことを機会に、ついに退職の意を社長に伝えようとするが、社長のこの仕事を始めたきっかけや独特の死生観を聞き、思いとどまる。

場数をこなしそろそろ一人前になった頃、突然美香が大悟の元に戻ってくる。妊娠を告げられ、再び納棺師を辞めるよう迫られた大悟に仕事の電話が入る。それは、一人で銭湯を切り盛りしていた山下の母、ツヤ子の納棺の依頼であった。山下とその妻子、そして自らの妻の前でツヤ子を納棺する大悟。その細やかで心のこもった仕事ぶりによって、彼は妻の理解も得、山下とも和解した。

そんなある日、大悟の元に亡き母宛ての電報が届く。それは大悟が子供の時に家庭を捨て出て行った父、淑希の死を伝えるものであった。「今さら父親と言われても…」と当初は遺体の引き取りすら拒否しようとする大悟に、自らも帯広に息子を残して男に走った過去があることを告白した同僚の上村は「最後の姿を見てあげて」と説得する。美香の勧めもあり、社長に車を借りて遺体の安置場所に向かった大悟は、30年ぶりに対面した父親の納棺を自ら手掛ける。 

 

主役の小林大悟を務めたのは本木雅弘さんです。

本木さんは単なる主演俳優ではなく、映画作品の「生みの親」であったようです。同じくWikipediaから「概要」を引きます。

本木雅弘が、1996年に青木新門・著『納棺夫日記』を読んで感銘を受け、青木新門宅を自ら訪れ、映画化の許可を得た。その後、脚本を青木に見せると、舞台・ロケ地が富山ではなく、山形になっていたことや物語の結末の相違、また本人の宗教観などが反映されていないことなどから当初は映画化を拒否される。

本木はその後、何度も青木宅を訪れたが、映画化は許されなかった。「やるなら、全く別の作品としてやってほしい」との青木の意向を受け、『おくりびと』というタイトルで、『納棺夫日記』とは全く別の作品として映画化。映画公開に先立って、小学館さそうあきらにより漫画化されている。このコミック版では建築物の細部まで多くの描写が映画と共通しているが、主人公の妻の職業などいくつか差異がある。

映画の完成までには本木と、本木の所属事務所元社長の小口健二の働きは大きい。

 

私は、2008年に『おくりびと』を見ました。

たしか2000年だったと思いますが、青木新門さんの講演を聴く機会がありました。そしてその会場で、青木さんのサインと落款のある『納棺夫日記』(文春文庫、1996年) を買い求めました。

映画化の時点ではWikipediaにあるような経緯は知りませんでしたが、公開前のCMで青木さんの著作が元になっていると直感しました。そして、映画を見ました。

 

著者の青木さんのプロフィール(1996年時点)を『納棺夫日記』のカバーから拾ってみます。

1937年、富山県入善町生まれ。

早稲田大学中退後、富山市内で飲食店を経営したが倒産。新聞の求人広告をみて、冠婚葬祭会社に就職。専務取締役をへて、現在は相談役を務めている。

「納棺夫」とは著者の造語であり、その体験が本書に結実した。 

 

「納棺夫」は青木さんの造語で、職業としては一般的に「納棺師」と言います。

 

納棺夫日記 増補鑑定版』(文春文庫、1996年)

 内容(「BOOK」データベースより)
掌に受ければ瞬く間に水になってしまうみぞれ。日本海の鉛色の空から、そのみぞれが降るなか、著者は死者を棺に納める仕事を続けてきた。一見、顔をそむけたくなる風景に対峙しながら、著者は宮沢賢治親鸞に導かれるかのように「光」を見出す。「生」と「死」を考えるために読み継がれてほしい一冊。

「増補改訂版」とあるのは、『納棺夫日記』の初版は1993年に富山の桂書房から刊行されました。文庫化に際し、同書の中の「納棺夫日記」部分のみを用いて一部改定し、新たに「『納棺夫日記』を記して」と著者注釈を書き下ろしています。

 

 

映画も感動しましたが、著作はさらに感動しました。

どちらもお薦めですが、まずは読んでいただきたいです。

 

私が「人権教育」という視点から『おくりびと』と『納棺夫日記』を取り上げているのは、先に映画『大コメ騒動』(「米騒動」か「米よこせの運動」か)を取り上げたのと同じ理由です。

マイナスのイメージを纏わされているものが、それがきっかけで払拭されると期待できるからです。

 

「納棺師」に限らず、葬祭に関わる仕事はしばしば職業差別の対象になってきました。

この差別は、死に対する「穢れ」観念に起因するものと思われます。

最近はあまり見なくなりましたが、葬儀場で渡される「清めの塩」は、「穢れ」を祓うためのものです。ほとんどの人はそんな意識もなく、「慣習」として塩を使っていたと思われます。しかし、無意識下の慣習として「清め(浄め)」が存在する裏側に無意識下の「穢れ」観念があり、それが職業差別につながっていることを意識しなくてはなりません。

 

「穢れ」には、「死」「出産」「血」に関するものがあるとされてきました。

女性を「不浄」としてきたのは「出産」「血(月経)」に因ります。何を言っているかと思いますが、いまも女人禁制の山もあれば土俵もあります。

広島県の宮島は島全体が神域で、出産と葬儀は海を隔てた本土で行ってきたといいます。墓も島にはありません。

 

「穢れ」のなかで最も重大視されていたのが死の穢れ、「死穢(しえ)」です。

古代・中世において死は恐怖の対象と見られ、死は伝染すると信じられていました。『延喜式』に、人の死穢は30日の謹慎と定められていました。

凡そ穢悪(えお)の事に触れて忌むべきは、忌に応るは、人の死は三十日を限り〔葬る日より始めて計えよ〕、産は七日、六畜の死は五日、六畜の産は三日〔鶏は忌む限りに非ず〕、宍を喫(はめ)るは三日云々

「穢れ」に触れることを「触穢(そくえ)」といいます。これも定めがありました。

凡そ甲の処に穢あり、乙その処に入らば〔着座を謂う〕、乙および同処の人は皆穢となせ。丙、乙の処に入らば、ただ丙の一身のみ穢となし、同処の人は穢となさず。乙、丙の処へ入らば、同処の人皆穢となせ。丁、丙の処に入るとも穢となさず。 

このような定めに従って、死穢に触れた者は、役所、衛陣、侍従所などの公の場に行くことができませんでした。その期間は甲30日、乙20日、丙10日、丁3日と定められていました。

ある貴族が、死穢に触れたことに気をもみ、心を病んで亡くなったという、笑い話のような笑えない話も残っています。

 

これらは1000年以上も前の話です。

しかし、いまも「忌中」があり、「喪中」もあります。

たまたま目にした「株式会社 加登」という会社のホームページに掲載されたものです。

忌中と喪中の違いとは何か?

近親者が亡くなった際に使われる言葉「忌中」と「喪中」。一見、どちらも似たような言葉に思えますが、具体的に両者にはどのような違いがあるのでしょうか。
 

忌中とは

忌中は、「死は穢れたものである」という神道の考えから生まれたもので、その穢れが他人にうつらないように外部との接触を断ち「自宅にこもって故人のために祈りを捧げて過ごす期間」を設けたのが由来です。
本来は仏教とは関係のない言葉ではあるようですが、仏教においても四十九日の法要が終わるまでの期間を忌中と呼ぶことが多いです。
 

喪中とは

喪中は、忌中も含む、より長い期間を指します。喪に服す期間、つまり、死を悼んで身を慎む期間です。亡くなった近親者への哀悼の気持ちをあらわすための期間であるため、昔は喪服を着て過ごしていたようです。
奈良時代の「養老律令(ようろうりつりょう)」、明治時代の「服忌令(ぶっきりょう)」といった法律により、喪中についての規定がなされたことも過去にはありました(現在の法律に規定はありません)。
 

忌中と喪中の期間の違い

忌中の期間には仏教と神道とで違いがあります。仏教の場合、四十九日法要を持って「忌明け」とするのが一般的です。神道では忌中の期間は故人との関係によって長さが異なり、最大で50日とされています。一方、喪中は儒教の考え方となるため、期間には仏教と神道とで違いはありません。故人との関係によって最大で1年間、一周忌法要までという考え方が一般的です。
 
学校や職場が定めた期間に従って休暇を取る「忌引き(きびき)」にも「忌」という言葉が使われていますが、忌引きの期間は忌中の期間とは関係なく、続柄によって1日~10日間と異なっています。忌引きが終わることが忌明けだと勘違いされやすいのですが、忌引きはあくまで「休暇が取れる期間」ですので、忌引きが終わっても忌中は続きます。
 
 

忌中や喪中の期間のマナーについて

忌中や喪中というのは、近親者を亡くした遺族がその死を悲しんで喪に服すことを意味していますので、期間中は過ごし方にも配慮が求められます。原則として、慶事への参加を控えること。例えば、結婚式や地鎮祭などへの参加やお正月の初詣などは避けるべきです。地域によっては、忌明けまでは派手な服装を避けることが習慣となっている場合もあります。
忌中であれば神社への参拝も控えるべきとされていますが、(忌が明けた後の)喪中については、少なくとも神社への参拝は控える必要はないとされています。
 
その一方で、近年は価値観の多様化によって忌中や喪中であっても、それぞれの判断によって過ごし方を決めるという方も増えているようです。
 
 
忌中と喪中はそれぞれに意味や過ごし方が異なりますが、どちらも残された家族が大切な人を失った悲しみと向き合い、これまで通りの生活を取り戻すために必要な時間だと言えるのではないでしょうか。
 

 

無意識下の慣習・風習が、無意識下の差別意識に繋がっているとすれば……。

 

 

 

 

Repost: 教師入門⑧ ~歩き始めた先生たちへ5~

2021年1月23日、ブログ「教育逍遙」は開設から満1年を迎えました。

この間、週5回の投稿を基本に265本の記事を公開してきました。

今は幾人もの方に読んでいただいていますが、開設当初はほとんど認知されることはありませんでした。その一方で、開設に至った「思い」は初期のブログに凝縮されていました。

開設から1年を機に、初期の記事を再掲し、これから教壇に立つ方や教壇に立ってまだ日の浅い方にお届けしたいと思います。

 

 

保護者とのつきあい方

 

保護者との信頼関係は、教室での指導を円滑に進めるためにも不可欠です。

大事なことは分かっていても、若い教師にとって悩みのタネなのが、保護者とのつきあい方ではないでしょうか。いやベテラン教師にとってもそうなのですが、保護者よりも年齢が下の間は格段に厳しいものです。

 

教師である自分を知る

 

保護者云々の前に、まずは職業としての教師が社会的にどういう位置にあり、どのように見られているのかということを自覚する必要があります。

 

 教師は「権力者」である。

役職や経験年数に関係なく、教師は「権力者」である。

と言ってもピンとこないかもしれません。

しかし、客観的事実として、教師は教育委員会(文科省)という公権力の末端に位置しています。世間は教師を公権力の体現者として認知しているのです。


さらに、教室という小社会においては、教師は「絶対的権力者」である。

子どもを評価する権限を保持することで、その地位は保証されています。


つまり、個人の人間性や努力などとは無関係に、教師とはそういう社会的存在だということなのです。

 

教師への「尊敬」「敬意」というもののなかに、権力に対する無自覚な敬意も一定程度含まれていたのではないかと思います。しかしそれは、かつてそんな時代もあったという昔話になりました。権力への無自覚な敬意は無自覚な敵意に取って代わり、今は基本的に厳しい視線が注がれています。そこのところはしっかりと自覚しておかないといけないと思います。

 

 教師は「世間知らず」である。
概して「教師は世間知らずだ」と言われるし、経験上あたっていると感じます。


「世間」には、「俗なもの」という意味合いと「一般常識」という意味合いがあります。
「俗なもの」にはオトコのアソビなんかが含まれ、そんなものにスレていないのが「世間知らず」の一面。私は、職場コミュニティと地域コミュニティの話題から認識することが多かったように思います。でもこれはバカにされることではありません。
「一般常識」がないという意味での「世間知らず」は、多分に小馬鹿にした語感を伴って発せられます。これなんぞは権力を踏みつける快感のようなものかなあと、勝手に分析しているのですが。

いずれにしても、「教師は世間知らずだ」と言われることが多いし、事実「世間知らず」であることも不思議と多い。これも自覚すべきです。

 

 教師は「ウソつき」である。
政治家にしても公務員にしても、権力を持つ者は保身のために平気でウソをつく。悲しいかな、周知の事実。

 

教師は保身のために弁解し、ウソをつく。これも残念ながら事実。

 

皆が皆そうだというわけではありませんが、いじめなどの報道では決まってウソの強弁をしています。そんな積み重ねが、「教師はウソつきだ」という見られ方につながっているのです。だからウソをついてもいいのではなく、誠実さが欠けるとにわかに悪評価に至るということを自覚することです。

 

個人の話ではありません。長い年月の営みの結果として、教師という職業そのものに厳しい視線が注がれるという現実を生んでいるのです。まずそのことを自覚しましょう。


そのうえで、保護者との間に信頼関係を築き、師としての敬意のまなざしが注がれるようになるかどうかは、まさに個々の生き方にかかっているといえます。

 


保護者は子育てパートナー


 「モンスター」などいない。
ひところ「モンスターペアレント」という言葉が流行りました。実際問題、保護者との関係が解決困難な状況に至ってしまうことが増えています。中には弁護士に委ねるしかない場合もあります。昔とは明らかに違います。


その「違い」はなんなのでしょう。

現象の表れ方の違いでしょうか、本質的な違いでしょうか。私は表れ方の違いだと考えています。

そうなんだけれど、本質的な違いかも思ってしまうほど現実は厳しいです。誠実さだけでは解決の糸口すら見えず、保護者は教師の「退場」を求めて突っ走ります。「モンスターペアレント」という言葉は、こうした現実の中で生まれました。

 

しかし、あえて言いいます。

保護者は「モンスター」なんかではありません。保護者に「モンスター」を見ている限り、問題の解決などあり得ないのです。

 

 「我が子が大事」
むかしというか私の若い頃も、子どもの問題をめぐって保護者と衝突することはありました。何度か保護者から痛罵されもしました。眠れない夜も過ごしました。


しかし、少し冷静になれば問題の構図がよく見えた時代でした。


保護者とトラブルになった原因は、私の指導に起因していました。そもそもの出発が子どもの問題行動にあったとしても、私の指導の過程で、保護者にとっての「ものさし」のある一線を越えたときに激しく抗議を受けたと思います。


私の側の思いはともかく、保護者は「ものさし」のある一線を越えたと受け止めて抗議をしています。振り上げられた拳が頭上にある間は、私は一切の弁解はしませんでした。そして、「怒りの本質」が何なのかを読み解くことに努めました。


いったん上げた拳を下ろすには、タイミングと落としどころがいります。「落としどころ」は、例外なく「ウチの子をしっかり見てやって」ということでした。

翻って、「ものさし」のある一線というのは、「我が子が大事にされていない」「我が子が差別的に扱われている」と受け止めた瞬間ということになるでしょうか。

 

教師は、子どもを集団の中の個として見ています。できる・できないという「ものさし」(能力主義)で常々子どもを見ているし、トラブルの多い子を色眼鏡で見てしまっていることもあります。そして、それは知らず知らずのうちに言動の端々に出ているはずです。

 

保護者は、かけがえのない存在として我が子を見ています。たとえどんな問題を起こしたとしても、我が子は可愛いし愛しい存在なのです。


正義がどちらにあるかという問題ではありません。保護者とはそういうものだと認識した上で事に当たらないと、往々にして思いは擦れ違うということです。

 

今の時代、「落としどころ」を持たない「徹底追及型」の保護者もいます。最悪の事態に至るまでには伏線があったはずですが、万に一つ泥沼に入ってしまったら第三者に委ねましょう。第三者は、職場の管理職、教育委員会、教委関係の弁護士と事態に応じて変わります。事ここに至っては誠実さだけでは関係修復は望めないので、決して一人で抱え込まないことです。

限られた見聞の範囲の知見になりますが、「落としどころ」を持たない「徹底追及型」の保護者が、地域コミュニティーにうまく溶け込めていないケースが多いようです。問題の背景や糸口を模索する1つの伏線になりそうです。


繰り返しになりますが、事態がそこに至るまでにできること、しなければならないことがあったはずです。

 

 「傾聴」こそ子育てパートナーへの道
若い教師が保護者に電話でトラブルの報告をしているのを、職員室で何度も耳にしました。

そのたびに言ったことがあります。

「いいことは電話で告げてもいい。でも、トラブルは家庭訪問して顔を見て話さないといけない。」

「最初のボタンの掛け違いが事態を悪化させ、解決のために何倍ものエネルギーを費やすことになる。何かあったらすぐに行く、表情を見ながら話す。それが基本だ。」

 

「報告」のための家庭訪問なら、事の経緯とこれからの取り組みを丁寧に説明します。保護者の理解と同意を得て、取り組み後の報告を約束すればいいのです。

 

「苦情」や「抗議」を受けての家庭訪問は、「報告」の家庭訪問とは違います。保護者との関係がギクシャクするのは、大抵このケースです。


「苦情」や「抗議」の一報は、学校へ電話がかかってくる、学校へ直接言いにくる、教委から連絡が入るといった形で届きます。この一報の時点で、保護者は拳を振り上げているわけです。


一報が電話であっても、電話での応答を絶対にしてはなりません。

すぐに家庭訪問することを告げて、電話を切りましょう。


「苦情」や「抗議」がまったくの勘違いであるなら、家庭訪問の場で誤解を解くことに努めればいいのです。


「苦情」や「抗議」に関して教師・学校に幾分かでも非があるなら、まずは保護者の言い分を聞きましょう。

「私はこういうつもりだった」などと弁解や言い訳は絶対にしないことです。抗議の言葉は時として厳しいかもしれませんが、大事なのは言葉のうしろにある「思い」や「ねがい」を読み取ることです。そのことだけに努めましょう。それが「傾聴」であり「落としどころ」になるわけです。


「苦情・抗議」の中身である「教師の非」と「思い・ねがい」を重ねたとき、教師として語るべきことが見えてくるに違いありません。

おそらくは、自分の不十分さ至らなさを認める言葉になるでしょう。その上で、これからの決意や覚悟を語る言葉になるだろうと思います。

 

教師・学校の言い分は、保護者が拳を下ろしてからでいいのです。

教師と保護者が子どもを真ん中に据えて同じ方向を向くことができたとき、両者は子育てパートナーとしての歩みの緒に就いたと言えます。子どもの課題を語り合えるのはそこからなのですから。

 

 

「Repost: 教師入門」は今回で終了です。

引き続き、「学級経営・集団づくり」「学びの創造」「人権教育」「教師力」などのカテゴリーにある文章をご覧いただければ幸いです。

 

 

節分の鬼はどこにいる

節分と言えば、豆まき。

豆まきと言えば、「鬼は外 福は内」 。

とまあ、相場が決まっているのですが…。

 

「鬼」ってなんでしょう?

「鬼」はどこにいるのでしょう?

 

「鬼は外 福は内」というフレーズには、「鬼」=「悪」という前提があります。

 

広い世間の一部には、「鬼は外」ではなく「鬼は内」と言うところもあります。

三浦康子さんの「暮らしの歳時記 ガイド」より引きます。

 暮らしの歳時記 ガイド
                 三浦 康子

【社寺編】鬼を祀っているので「鬼は外」はタブー!
節分
節分の鬼のとらえ方は社寺によって違います

立山真源寺(東京都台東区)→「福は内、悪魔外」
鬼子母神を御祭神としており、「恐れ入谷の鬼子母神」で有名。鬼子母神とは、他人の子供を襲って食べてしまう鬼神でしたが、見かねたお釈迦様が彼女の末子を隠し、子供を失う悲しみを諭します。それ以来仏教に帰依するようになり、子供の守り神となりました。


鬼鎮神社(埼玉県比企郡嵐山町)→「福は内、鬼は内、悪魔外」
鎌倉時代の勇将・畠山重忠の館の鬼門除けとして建立したので「悪魔外」。また、金棒を持った鬼が奉納されているので「鬼は内」です。


元興寺奈良県奈良市)→「福は内、鬼は内」
寺に元興神(がごぜ)という鬼がいて、悪者を退治するという言い伝えがあります。


稲荷鬼王神社(新宿区歌舞伎町)→「福は内、鬼は内」
「鬼王」として「月夜見命」「大物主命」「天手力男命」の三神を祀っています。


天河神社奈良県天川村)→「鬼は内、福は内」
鬼は全ての意識を超えて物事を正しく見るとされているため、前日に「鬼の宿」という鬼迎えの神事を行い、鬼を迎い入れてから節分会をします。


金峯山寺蔵王奈良県吉野郡吉野町)→「福は内、鬼も内」
全国から追われた鬼を迎い入れ、仏教の力で改心させます。


千蔵寺(神奈川県川崎市)→「福は外、鬼は内」
厄神鬼王(やくじんきおう)という神様が鬼を堂内に呼び込み、悪い鬼に説教をして改心させ社会復帰させます。


大須観音(愛知県名古屋市)→「福は内」のみ
伊勢神宮の神様から授けられた鬼面を寺宝としているため「鬼は外」は禁句です。


成田山新勝寺(千葉県成田市)→「福は内」のみ
ご本尊の不動明王の前では鬼も改心するとされています。

【地域編】鬼さん、いらっしゃ~い 
群馬県藤岡市鬼石地区→「福は内、鬼は内」
鬼が投げた石でできた町という伝説があり、鬼は町の守り神。全国各地から追い出された鬼を歓迎する「鬼恋節分祭」を開催しています。


宮城県村田町→「鬼は内、福も内」
羅生門で鬼の腕を斬りとった男(渡辺綱)が、この地で乳母にばけた鬼に腕を取り返されてしまったため、鬼が逃げないよう「鬼は内」といいます。


茨城県つくば市鬼ケ窪→「あっちはあっち、こっちはこっち、鬼ヶ窪の年越しだ」
あちこちで追いやられ、逃げ込んできた鬼がかわいそうで追い払うことができないため「あっちはあっち、こっちはこっち」。節分の豆まきは新春(立春)を迎える前日の厄払いであり、昔は新年を迎える前日としてとらえていたので「鬼ヶ窪の年越しだ」と言っていたそうです。

 

よく見ると、「鬼は内」 にも特徴的な2つのグループがあることが分かります。

 

1つは、「立山真源寺」「金峯山寺蔵王」「千蔵寺」「成田山新勝寺」のグループです。

ここでは「鬼」=「悪」が前提になっています。それを改心させているわけです。

 

もう1つは、「鬼鎮神社」「元興寺」「天河神社」のグループです。

ここでは「鬼」=「善」もしくは「鬼」≒「善」が前提になっています。「稲荷鬼王神社」「大須観音」も、少なくとも「鬼」≠「悪」であると思われます。

天河神社」の「鬼は全ての意識を超えて物事を正しく見るとされている」というのは、特筆すべき世界観だと言えます。

 

 

そもそも、「鬼」とは何なのでしょうか。

 

私は、20代の頃にかなり真剣に考えたことがあります。そして、次のように結論づけました。

その人(あるいは社会)のもっている「ものさし」の「めもり」からはみ出たものや未知のものへの畏怖や嫌悪を「鬼」という虚像にして顕在化させた。そして、異質なもの、特異なものを「鬼」として排除し、ときに攻撃することで心の平衡と平静を保ってきたのではないか。

 

そう考えるならば、「鬼」の所在は私自身の心の内にあることになります。

 

そして、心の内に棲む「鬼」は、その対象を差別的に処することがしばしばあります。ここに人権教育の課題として「鬼」を考える視点があります。

 

 

30代の半ば頃、人権教育教材集の教師用指導書の原稿として書いた文章があります。参考までに紹介します。

 

3年 「島ひきおに」


1.教材設定の意図


 学級のなかにはさまざまな「問題」を持つ子どもがいる。それは、いわゆる「障害」であったり、乱暴な行為であったり、大声で泣き叫ぶ行為であったり、寡黙であったり、家庭状況であったりする。しかし、正確に言うなら、ここに列挙したようなこと自体が「問題」なのではない。「問題」の多くは、まわりの無理解や先入観に起因する。


 絵本『島ひきおに』の「はじめに」で、作者は、「いつのまにか自分が鬼になっていました。私の最初の心のうずきは、孤独だったと思います。だれにも遊んでもらえぬ昼さがり、泣いてかえる白い道そして、今日までこの孤独と愛の問題をひきずりながら、『島ひきおに』のように歩きつづけてきたような気がするのです。」と、述べている。学級のなかで「問題」だと思われている子どもに、この「おに」を出会わせたい。彼・彼女の心の琴線に触れ、閉ざされた扉を開いていける出会いにしたい。


 学級の多くの子どもたちは、作品における「村びと」の立場にある。彼ら・彼女らに望むことは二つある。


 鬼はマイナスの存在として語られることが多い。しかし、恐ろしい鬼がどこかに実在しているというわけではない。人々は自分たちと異質なものを鬼という虚像のなかに描き、排除し、時に攻撃してきたとは言えないか。ところで「島ひきおに」は、「おに」が心優しい存在として描かれているという点で、日本の児童文学の中では稀な作品である。子どもたちは、この「おに」と出会うなかで、恐ろしいという「虚像」ではなく、仲間を求めつづける純粋な「実像」に触れるだろう。「おに」の気持ちへの理解を通して、学級に中で「おに」にされている仲間の気持ちを考えていってほしいと思う。


 二つ目には、「村びと」の問題である。「おに」の思いを知れば知るほど、「おに」を避け、あるいは騙していく「村びと」への憤りが強くなるだろう。この憤りを、同時に内なる「村びと」に向けさせたい。自分(内なる「村びと」)が仲間(内なる「おに」)をどう見てきたのか、どう接してきたのか。まさに、自身の生き方を問い直す営みに向き合わせたい。


 いずれにせよ、集団の質を問われる作品である。教材は文学の読みの学習になるが、子どものつながりの高まりのなかで、劇化や図工の共同制作などに発展させていきたい。


2.教材の焦点


① 仲間と一緒に暮らしたいという願いが分かってもらえず、誰にも受け入れても らえない、「おに」の悲しさ、辛さを読み取る。


② 外見と予断から、「おに」を少しも理解しようとせず追い出した「村びと」に ついて、感想、意見を持つ。


③ 「おに」や「村びと」を通して、自分や自分の周りを見つめ直す。


以上3点を、この教材を学習する目標としたい。


 「おに」と「村びと」の様子や心情を表す言葉を手がかりに、読みをすすめていきたい。まず最初の部分では、広い海の真ん中でひとりぼっちで暮らす「おに」、鳥や船にさえ「おーい、こっちゃきてあそんでいけ!」と呼びかける寂しい「おに」の様子や気持ちを読み取る。それと対比する形で、漁船が島にやってきたのを見た「おに」の喜びを読み取りたい。


 (教材のページは省略)では、「りょうし」と「おに」の心のズレに焦点を当てて読みたい。びっくりして命乞いする「りょうし」と、一緒に暮らせる方法を尋ねる「おに」。とんでもないと口から出まかせを言う「りょうし」と、心からお礼を言う「おに」。と、いった具合に。

 

 (教材のページは省略)は、「おに」が引っ越しの準備をする場面である。人間と一緒に暮らせるという希望や期待を膨らませながら、3日間で準備を済ませ、島を引いて歩いていく「おに」の様子や気持ちを考え合いたい。


 (教材のページは省略)では、ようやく浜辺の村まで島を引っ張って行き、「おーい、……」と呼んだ「おに」の気持ちを、まず考えたい。そして、何とかして「おに」に出ていってもらおうとする「村びと」と、気持ちが分かってもらえず足を踏みならす「おに」の様子や気持ちを読み取る。足を踏みならす「おに」の思いは、特にていねいに読みたい。


 (教材のページは省略)は、「おに」がべつの村へ辿り着いた場面である。「おーい、……」と呼ぶ「おに」、じいさまを迎えた「おに」の様子や気持ちに焦点を当てて読みたい。


 (教材のページは省略)では、自分が食べたのではないことを訴え続ける「おに」の思いに迫る読みをしたい。そして、事実を知りながら「おに」を追い出そうとする「村びと」について意見を出し合いたい。


 (教材のページは省略)では、①島を引っ張りながらあちらこちらをさまよう「おに」と、受け入れようとしない「村びと」、②深い海のなかを島を引いて何年間も歩く「おに」、③綱のように痩せ細ってもなお、雲や月に「おーい、……」と呼ぶ「おに」の様子や気持ちを読み取り、感想や意見を出し合いたい。


 ラストシーンの「なんぼかむかしのはなしじゃそうな。だがいまでもおにはうみのまんなかを、みなみへみなみへながれつづけておるかもしれん。」という文章は、子どもたちに内なる「おに」、内なる「村びと」と向き合わせる。まさに、自分自身の生き方が問われる部分である。深く自分やまわりの仲間を見つめ直させたい。


3.教材の解説・資料


 「島ひきおに」は、山下明生(やました はるお)氏の作品で、1973年に梶山俊夫氏の絵による絵本として、偕成社より刊行された。

 

 山下明生氏は1937年東京に生まれ、幼少年期を広島県能美島で過ごした。海育ちの海好きで、『かいぞくオネション』『いきんぼの海』『ふとんかいすいよく』『うみをあげるよ』『はまべのいす』『海のコウモリ』など、海を舞台にした作品が多い。


 「島ひきおに」の作品については、絵本の「はじめに」で次のように述べられている。「私のいなか、広島県能美島のすぐそばに、敷島という無人島があります。もとは引島とよんでいたそうです。鬼が引っぱってきた島だから、引島といったんだと、私は小さいときからきかされました。いかにも鬼が引っぱってくるにふさわしい、周囲数百メートルの小島です。 私はこのいいつたえが好きで、たびたび小舟をこいでこの島にわたりました。島のてっぺんには、何をまつっているのか、古ぼけた祠がありました。きこえてくるのは、波の音、沖をとおる船の音、松の梢をすぎる風の音。 そこは、孤独がしんしんと身にしみる霊場でした。私は祠の前に腰をおろし、島をとりかこむ海をながめながら、この島を引っぱってきたという鬼のことを想像しました。いいつたえでは、鬼はここで力つきて、死んだというのです。 しかし、私はこの鬼を死なせたくなくて、自分の空想のなかで、どこまでも海をあるかせました。何しにいくのか、どこまでいくのか考えながら、いつのまにか自分が鬼になっていました。(以下、教材設定の意図の引用文に続く)」こうしてみてくると、「おに」はまさに作者自身だと言えるし、作者の思いが作品のなかで見事に形象化されている。


 1986年、続編として『島ひきおにとケンムン』(偕成社)が出された。「はじめに」には、こうある。「人はたいてい心の中に“さびしいおに”をもっています。 わたしの心の“島ひきおに”も、…略…ひとりで海を歩いてきました。なん年もなん年も……。『ケンムンのはじまり』を本で読んだとき、わたしは、島ひきおにを彼にあわせてやりたくなりました。」それから7年後の作者の奄美大島再訪の旅ののちに、この作品は生まれた。同じ“さびしさ”をもつが故に通い合う、島ひきおにとケンムンの心。そして、悲しい別れと、ひとりで海を歩いていくラストシーン。「島ひきおに」とあわせて使いたい作品である。 

 

まずは『島ひきおに』のご一読を。

そして、「鬼」を哲学しませんか。

Repost: 教師入門⑦ ~歩き始めた先生たちへ4~

2021年1月23日、ブログ「教育逍遙」は開設から満1年を迎えました。

この間、週5回の投稿を基本に265本の記事を公開してきました。

今は幾人もの方に読んでいただいていますが、開設当初はほとんど認知されることはありませんでした。その一方で、開設に至った「思い」は初期のブログに凝縮されていました。

開設から1年を機に、初期の記事を再掲し、これから教壇に立つ方や教壇に立ってまだ日の浅い方にお届けしたいと思います。

 

 

授業のキホン

 

同じ教科書を使って授業をしても、教師それぞれの個性というかクセのようなものがあるものです。それは案外教師になって最初の1、2年の間に基礎が形成されていくように感じます。だからこそ「キホン」をしっかり身につけてほしいと願うのです。


高度なテクニックや独創的な工夫など、教師になったばかりのころは必要ありません。いや、むしろ独創的な工夫などしてはいけないとさえ思います。変な工夫をして、その結果的外れな授業にしてしまった例を、私はいくつも見てきました。「キホン」ができてないのに独創的な工夫などすれば、それは砂上の楼閣になること必定です。

 

では、授業の「キホン」とは何で、どこで学ぶのでしょうか。

 

だれもが手にすることができるツールは、教科書の赤本(赤い字で書き込みのしてある教師用教科書)と教科書会社が作っている指導書でしょう。かつては教科書批判も随分しましたが、普通学級における特別支援教育が言われるようになってからの教科書はかなりいいと感じています。赤本や指導書に忠実な授業ができれば、少なくとも的外れな授業はなくなるはずです。

 

そんなお仕着せはつまらないと思うかもしれません。

ですが実際には、赤本や指導書に忠実な授業ができる教師はそれほど多くないのです。

 

具体的に話しましょう。

国語の教科書を見ると、教材名の前に単元名と単元のねらいが書かれています。単元のねらいは、学習指導要領の指導内容と合致しています。このねらいを学ぶ手立てが、単元の最終ページに「学習のてびき」などの形で出ています。

まずは、これを拠り所に授業を組み立てるとよいでしょう。参考書は赤本と指導書です。

実際の授業には子どもの実態等を勘案した工夫が必要になります。ここでいう「工夫」は先に書いた「独創的な工夫」とはまったく別物です。「工夫」の前提として、「てびき」や指導書の該当箇所を何度も何度も読み込んでみましょう。そして、1時間の授業のねらいや指導のポイントを読み取ります。その上で、そのねらいを達成するための学習活動をどう組み立てていくかを工夫すればいいのです。


残念な例ですが、「学習のてびき」を朗読させ、「登場人物の気持ちの変化を読み取る」という部分を板書し、「では、読み取りましょう」と切り出した授業を見たことがあります。いや、これでは授業とは言えません。

「変化を読み取る」ことはねらいであり、1時間の授業の達成目標です。ねらいを達成するための活動が授業であり、どんな活動をどのように差し出すかというのが「工夫」です。

 

算数の教科書は、随分親切になりました。感覚的な表現ですが、「中の下」「下の上」くらいに位置する子が救われるものになっていると思います。

例えば「わり算の筆算」を見ると、筆算の計算手順が実に親切丁寧に書かれています。教師がその通り親切丁寧に指導し、定着するまで手順を手抜きせず繰り返させれば、大部分の子どもがマスターできるはずです。最もダメなのは、教師が安易に手順の省略を認めることだです。


教科書の「親切丁寧」さは、子どものつまずきのメカニズムと密接に関係しています。詳しくは別の機会に触れます。

特別支援教育の視点を踏まえた教科書編集の意図を理解しない教師の指導が、基礎・基本でつまずく子を大量生産している現実だけは心に留めておいてほしいと思います。

 

つまり、赤本や指導書に忠実な授業をするというのは、文字化された授業の流れを十分に咀嚼し、文字化されていない筆者・編者の意図も含めて具体的活動に落とし込んでいくということです。

「学ぶ」は「真似ぶ」が転訛したものとの説もありますが、教師になって最初の1~2年は徹底して真似ましょう。そして、授業を組み立てる基礎力を手に入れましょう。

 

その上で、授業の「キホン」として、2つだけ加えておきます。


1つは、教師の目線の位置です。


すべての子にわかる授業と言葉で言うのは易しいですが、実際にはなかなかそうはいかないないものです。しばしば陥るのが「できる子」に依存した授業です。たしかに授業はスムーズに進みますが、理解できていない相当数の子を取り残しています。


すべての子にわかる授業の工夫は少し先に置くとして、まずは授業のレベルをクラスの平均よりもやや下の子に合わせる習慣をつけてほしいと思います。それが教師の目線の位置です。目線の位置が定まれば、経験値から集団の実態を読み取りレベルを上げ下げできるようになります。


「できる子」に依存した授業が当たり前になっている教師は、できないことを子どものせいにしてしまいます。苦しんでいる子をいっそう苦しめ、それでいて平気です。そんな教師の轍を踏まないためには、最初に自分の立ち位置を定めることです。

 

もう1つは、禁句です。


教師が無意識に多用する言葉に「わかりましたか」というのがあります。

しかし、これほど無意味で怪しい言葉はありません。分かっていないことを自覚して意思表示できるのは、いわゆる「できる子」たちです。分からない子は周りに合わせて何となく「はい」と言い、あるいは教師の心を忖度して「はい」と言っているのです。

「わかりましたか」は教師の自己満足、マスターベーション以外の何ものでもありません。「はい」の一言で授業が先に進んでいるなら、百害あって一利なしだと私は思います。


子どもが分かっているかどうかは、目と表情から読み取るべきです。禁句と言えば過ぎかもしれませんが、多用は禁物と心しましょう。

 

 

 

 

Repost: 教師入門⑥ ~歩き始めた先生たちへ3~

2021年1月23日、ブログ「教育逍遙」は開設から満1年を迎えました。

この間、週5回の投稿を基本に265本の記事を公開してきました。

今は幾人もの方に読んでいただいていますが、開設当初はほとんど認知されることはありませんでした。その一方で、開設に至った「思い」は初期のブログに凝縮されていました。

開設から1年を機に、初期の記事を再掲し、これから教壇に立つ方や教壇に立ってまだ日の浅い方にお届けしたいと思います。

 

 

学級目標は過程の共有化が大事

 

学級目標は、教室の装飾品ではありません。重要なのは、目標に向けての歩みを担任と子どもたちが共有することです。歩み=過程の共有化には評価が欠かせません。評価はポイントを押さえて的確に褒めることですが、これが難しい。

 

《始業式の日の学級通信》

たんぽぽの花のように生きよう!!
      タンポポのようなクラスを作ろう!!

 

5年生の始業式の日に「たんぽぽの花のように生きよう!!  タンポポのようなクラスを作ろう!!」という学級目標を掲げたクラスのその後です。

 


《1学期終業式の日の学級通信》

        5年生の1学期は?,△?,×?
 今日は1学期の終業式。一人ひとりの学習や生活の様子は、「あゆみ」を見てほしい。ここでは、「クラス」としてどうだったかを考えてみたい。
 いたずらと保健室へ行く人の多さでトップだったころと比べると、今のきみたちは別人のように落ち着いている。ほんの少し大人に近づいたということもあるだろうが、きみたちは成長した。しかし、これも外から見れば、へこんでいたのが平らになったに過ぎないのかも知れない。
 私たちの目標は、「教室」という入れ物に静かに入っていることではない。それは「クラス」を作っていくためのスタートでしかない。私たちは、やっとそのスタートラインに立とうとしている。ーーと、先生は見ている。
 私たちがめざしているのは、「タンポポのようなクラス」を作ることだ。それは一言で言うと、それぞれのよさを生かしながら、一人ひとりを輝かせてくれるクラスを作るということだ。一人ひとりが輝いて見える場面には、いくつも出合わせてもらった。しかし、タンポポの花の輝きにはなっていない。
 きみたちと出会った4月、忘れられないことがある。それは、「お楽しみ会をしたらもめるだけだから、お楽しみ係は作らない。」「花を飾ったら花びんが割れるだけだから、花をかざらない。」と、きみたちが言い切ったことだ。事実、だれ一人として花を持ってきた人はいなかったし、教室をきれいに飾った人もいなかった。お楽しみ会もなかった。みんなのために何かをするという姿は、あまり見られなかった。
 やっとスタートラインに立とうとしていると思えるようになったことは、うれしい。でも、先生は今のクラスの姿に満足していないし、むしろ残念に思っている。何とかしようという声がどこからも出てこないことも、また残念に思っている。
 2学期は、係の名前も中身も、学級会のやり方も、朝の会や帰りの会も、全部変える。仲良しの友だちのためにだけではなく、みんなのために一生けんめいになることが、すてきだと思えるクラスにしたい。9月からがんばろうな。

 

文字にしていることはやや抽象的ですが、これをベースに具体的な中身を加えながら話しています。

 

以下に、折々の評価コメントを掲載します。実際には子どもの日記などがあって、その後にコメントしているのですが、ここでは省略します。

 

《2学期終業式の日の学級通信》

              続・冬空にタンポポの花一輪
 1学期末の「蒲公英」で、先生は「タンポポの花の輝きにはなっていない」ことが残念だと書いた。

 初めてお楽しみ会をした後の「蒲公英」では、「今までのきみたちに一番足りなかった力を、ほんのちょっとつかめたような気がします」と書いた。

 お米についての長い討論の末に実現した手巻き寿司パーティー後の「蒲公英」では、「私たちのクラスに今やっと1輪のタンポポが花開こうとしている」と書いた。

 そして今、きみたちに次の言葉を贈りたい。「冬空の下に私たちのタンポポが1輪、今、花開いた。」
 覚えておいてほしい。みんなの心が一つに重なった時、あの美しいハーモニーが生まれたということを。そして、やり終えた後の満たされた気持ちと、拍手の心地よさを。タンポポは1輪で咲くより野原一面に咲く方がもっといい。私たちのめざす「タンポポのようなクラス」は野原なのだ。群れ咲くタンポポの美しさは、日食の時紹介したダイヤモンドリングの輝きと同じだ。新しい年を迎えると同時に6年生からリーダーを引き継ぐきみたちに、先生は心から期待している。

 


  《6年生2学期終業式の日の学級通信》

      音楽発表で「タンポポ」の大輪開く!
 私たちは、一人ひとりが「たんぽぽ」になること、そしてクラスが一つの「タンポポ」になることを目標にしてきました。16日は、そんな私たちの「記念日」になりました。去年の今ごろ、『蒲公英』№63に学年発表のことを書いています。ぜひ、読み返してください。この1年間の歩みを振り返りながら、これからの3ヶ月を見つめましょう。

 

《卒業式の日の学級通信》

        出会いに乾杯!!~「蒲公英の子ら」へ~
 24名のなかまのみなさん、卒業おめでとう。卒業証書を手に巣立ち行くきみたちに、はなむけの言葉を贈りたいと思います。
 個としての「たんぽぽ」と集団としての「タンポポ」をめざして、私たちは2年間ともに歩んできました。決して立派な完成品ができあがったわけではありません。しかし、きみたちはよく努力したし、まちがいなくきみたちは変わったと思います。
 そもそも、個としての「たんぽぽ」にゴールなどありません。個性とは、生ある限り磨き続けていくものです。それでも、今たしかに言えることは、一人ひとりが「タンポポ」を構成する一つの花であるという自覚を持って生きるようになったこと、一つの「たんぽぽ」としてよりよく生きようと努力するようになったということです。音楽発表会を控えた12月12日、Hさんは日記にこう書きました。「みんなやる気を出して、全員で歌いたい。今までは歌詞がまちがっていそうで大きな声で歌えなかったけど、今はちがう。大きな声で歌える。私は、そうなっている。みんなも大きな声で歌ってほしい。」ぼくはこんな日記が出てくるのをずっと待っていたし、この日記を見た時、発表会の成功を確信しました。
 集団としての「タンポポ」は、今日で一応の終わりを迎えます。消えるわけではありませんが、これ以上にどうにかする努力はもうできません。そういう意味では、今日がゴールということになります。とびきりではないけれど、十分にきれいな「タンポポ」に育ったと思います。思い返せば、「お楽しみ会をしたらもめるだけだから、お楽しみ係は作らない。」「花を飾ったら花びんが割れるだけだから、花を飾らない。」という現実から私たちの2年間が始まりました。5年生1学期末の『蒲公英』№29には、「先生は今のクラスの姿に満足していないし、むしろ残念に思っている」と書いています。12月16日の手巻き寿司パーティー後の『蒲公英』№61に、「季節は冬を迎えたけれど、私たちのクラスに今やっと1輪のタンポポが花開こうとしている。」とあり、直後の全校集会を伝える『蒲公英』№62,63のタイトルは「冬空にタンポポの花一輪」となっています。そして5年生最後の『蒲公英』には、「きみたちに求めたいのは、ゲームで『一つになる』ことではない。そのことを第一歩として、学習やなかまのことを考え合うことで、『一つになる』ことだ。」と「宿題」が記されています。そして、この1年の歩みがあるわけです。きみたちはすてきな「タンポポ」として、今「栄光の架橋」(注:卒業式のなかで歌った曲)の上にいます。
 学級つうしん『蒲公英』は、なかまをつなぐ「ボンド」でありたいと願いつつ号を重ね、今最終号を書いています。「魔法のボンド」ほど効き目はなくても、『蒲公英』を配った時に一瞬静かになる空気がぼくは大好きでした。今後、『蒲公英』というタイトルの通信は二度と発行しません。そして、きみたちのこの2年間の歩みを心に刻んで、「蒲公英の子ら」と呼びたいと思います。
 出会いに乾杯!これからもきみたちのとなりを歩く一人でありたいと思います。健闘を心から祈っています。

 

通信のその部分だけを並べると何だかくどい感じがしますが、リアルタイムでは期間も空いているし、内容も記憶から遠のいていきます。節目節目に成長のあとを振り返り、目標に照らして評価することで、教師と子どもが成果と課題を共有できるのだと考えます。

 

 

 

Repost: 教師入門⑤ ~歩き始めた先生たちへ2~

2021年1月23日、ブログ「教育逍遙」は開設から満1年を迎えました。

この間、週5回の投稿を基本に265本の記事を公開してきました。

今は幾人もの方に読んでいただいていますが、開設当初はほとんど認知されることはありませんでした。その一方で、開設に至った「思い」は初期のブログに凝縮されていました。

開設から1年を機に、初期の記事を再掲し、これから教壇に立つ方や教壇に立ってまだ日の浅い方にお届けしたいと思います。

 

 

 

学級目標は「キャッチコピー」と「具体的課題」の2段構え

 

大概の教室では、前面黒板の上の壁に学級目標が掲げられています。

 

学級に目標があること自体は必要ですし、それがよく見えるところに掲げられているというのも大事なことです。問題は、その学級目標が具体的に機能しているかどうかです。単なる壁飾りに堕しているなんてことはないでしょうか?

 

学級目標の多くは、「みんななかよく」といった集団の目標か、「強く やさしく ねばり強く」といっためざす子ども像的目標のいずれかです。私も若い頃はそうしてきました。

その後長らく学級を離れた時期があって、退職前の10数年、学級目標は「キャッチコピー」と「具体的課題」の2段構えにしました。

 

キャッチコピーに掲げるのは、集団づくりの抽象的イメージです。イメージの世界というのは感覚の世界で、ビジュアル化すれば子どもに届きやすい世界です。

 

私の集団づくりの理念は、自立した個人と協働です。詳しくは、別のところで述べます。ここでは、そのイメージが「集合花」であるタンポポだとだけ申しておきます。

私に「集合花」という言葉を教えてくれたのは、教師になって5年目に出会った教え子でした。今まで、「教師は子どもに育てられる」と思ったことがいくつもありますが、その日の日記も忘れ得ぬひとつです。

 
    ……“たんぽぽ”の花のことについて思うことがあります。“たんぽぽ”の花みたいに生きたいんです。この花は無数の小さな花の集合花です。1枚の花びらと思っているのは、完全な1個の花です。他にも“たんぽぽ”のような花があります。「みんながいっしょになっている」そんなものが大好きです。

私は、その日記にこんな返事を書きました。

「かたち」がいっしょになっているんじゃなくて、「こころ」がいっしょになっている集合体(学級集団)でありたいですね。

 

キャッチコピーを具体的に紹介します。

これは4年生でまとまりを欠いていたクラスを5年生で担任した時のものです。

 

《始業式の日の学級通信》

たんぽぽの花のように生きよう!!
      タンポポのようなクラスを作ろう!!
 きょうから5年生。
 みなさんのなかまに入れてもらうことになりました。よろしくお願いします。
 高学年のスタートです。たくさんの楽しみが待ち受けています。同時に、今までにない責任の重さも待ち受けています。
 学校がみなさんにとって楽しいところになればいいなあと思います。勉強っておもしろいなって感じてもらえたらいいなあと思います。そして、25人の一人ひとりが、自分らしさを精一杯発揮できたらいいなあと思います。--そんなクラスをみんなの力でつくりましょう。
 ところで、学級つうしん「蒲公英」(この難しい漢字は「たんぽぽ」と読みます)のことですが、このタイトルは、みなさんへの二つの思いを込めて付けました。

     たんぽぽの花のように生きよう!!
     タンポポのようなクラスを作ろう!!

 みなさんには、これが何のことだか分かるでしょうか。あれこれと想像をめぐらせてください。そして、学校の周りにたんぽぽの花が咲いたら、先生の思いをお話しします。

 

教室の前面黒板の上に壁に、「たんぽぽの花のように生きよう!! タンポポのようなクラスを作ろう!!」と書いた模造紙を掲げます。


《始業式から半月後の学級通信》
            たんぽぽの花の秘密に迫る!!
 まずは3年生理科の復習。植物は、「葉」「くき」「根」という3つの部分でできている。そして、「葉」の変形したものとして「花」がある。「花」は、「花びら」「めしべ」「おしべ」「がく」で構成されている。レンギョウを例に確かめてみよう。
 さて、タンポポの花はどうだろうか。
「花びら」「めしべ」「おしべ」「がく」はどこにあるのだろう。花びらがいっぱいあってよく見えない。そこで、花を半分に割ってみた(実際の通信にはタンポポの花を分解した写真が載っている)。そうすると、次の写真のようなものがぎっしりと並んでいる。観察してみよう。
 1枚の「花びら」だと思っていたものは、実は1個の花だったのだ。
 つまり、タンポポにはそれぞれに一人前の花がいっぱいあって、それらが集まって一つの「花」を形作っているのだ。それぞれが独立していながら、集まった姿が美しい。そんなタンポポの花を、みんなに紹介したかった。
     たんぽぽの花のように生きよう!!
 きみたちは25人の5年生の中の一人ではない。世界にたった一人のきみなのだ。上の写真の5つの花を見てごらん。みんな表情が違うだろ。かけがえのない自分を生きてほしい、かけがえのない自分をみがいてほしい、かけがえのない自分を輝かせてほしいと思う。「たんぽぽの花のように生きる」とは、オンリーワンの自分を生きるということだ。
     タンポポのようなクラスを作ろう!!
 かけがえのない一人が25人集まって、このクラスがある。上の写真の5つの花はそれぞれに表情が違うのに、まとまりとしてのタンポポは美しい。一人ひとりが独立した個人であり、個性的であってほしいと同時に、クラスという集団として輝いてほしい。それぞれのよさを生かしながら、一人ひとりを輝かせてくれるクラスを作りたい。それが、「タンポポのようなクラスを作る」ということだ。
 --そんな思いを込めて、始業式の日に「蒲公英」第1号をきみたちに手渡した。課題は大きく高い。一緒に頂上をめざそう。

 

 

思いを「連凧」に託した年もありました。


「集団」と「個」の関係は、1つの花である「たんぽぽ」にあたるのが1つの「凧」、集合花としての「タンポポ」にあたるのが「連凧」です。


保護者を巻き込んだトラブルが続き、女子の関係が困難を極めて5年生を終えました。そのクラスを6年で担任した時のものです。

 

《始業式からほぼ1カ月後の学級通信》

          私たちの課題が見えてきた
 6年生最初の1か月が過ぎました。ふわふわとした羽毛にくるまれたような、優しい時間が経過していきました。教室に流れる空気(ムードと言ってもいい)はとてもいいと思います。しかし、ムードだけではやがて物足りなさを感じる日がやってきます。ぼくが今感じている課題を示したいと思います。

                          私たちのめあて
          一人ひとりがしっかりとした「凧」になろう!
                大空にも心にも「連凧」を揚げよう!

 私たちのめあては2つです。それぞれのめあてについて、具体的に述べていきましょう。
一人ひとりがしっかりとした「凧」になるということ
 自分の五感で見聞し、自分の頭で考え、自分で判断したことを、自分の言葉と行動で表現する--そうした生き方をすることが、自分を大切にすることになるのです。ぼくが「自分」という言葉にこだわるのは、一人ひとりが人生の主人公になってほしいと願うからです。人の意見に耳を傾けることと、判断や行動を人任せにすることは全く違います。
 同じものを見聞きしても、感じ方や考え方はさまざまです。したがって、言葉や行動で表現されることも人によって違います。すべての人の顔が違うのと同様に、考え方や表現も違っていていいのです。この違いを「個性」と言います。
 一人ひとりがしっかりとした「凧」になるということは、個性(自分らしさ)を大切にするということです。静かすぎる授業はだめです。ワイワイガヤガヤが一杯の教室にしましょう。いろんな考えや答えがあるから学習が深まるのです。仕事をするときは、指示される前に動きましょう。新しいアイデアは、自分から働きかけることによって生まれるのです。
大空と心に「連凧」を揚げるということ
 「凧」を1本の糸でつなぐと「連凧」になります。しかし、それでは「連凧」の魅力を説明したことにはなりません。「連凧」は、1枚1枚の「凧」をつないで作ります。それぞれの「凧」は揚がるように作られているのですが、ちょっとかたむくものや、すぐに落ちてくるものもあります。その点では人間の「個性」と似ています。それら1枚1枚の「凧」を25枚つないだ「連凧」は、最もよく揚がっていた1枚の「凧」よりもなお勢いよく揚がるのです。人間に置き換えて言えば、25人の「個性」が集まることによって30人分も50人分ものパワーになるのです。これが「連凧」の魅力です。
 きみたちの1つ先輩は、運動会の応援団や音楽発表会、映画作り、きみたちとのバスケットボール大会などで、すてきな「連凧」ぶりを見せてくれました。きみたちはどんな「連凧」を揚げるのでしょう。大空に勢いよく舞う「連凧」をぼくは毎日思い描いています。そのためにも、まずは自分という「凧」をみがいてほしいと思います。
 人が凧と違うのは、大空だけではなく心にも「連凧」を揚げられるところにあります。心に揚がる「連凧」は、目で見ることはできません。それは、大空にいくつ目かの「連凧」が揚がったとき、ポッと姿を見せてくれるのです。それがいくつ目かは分かりません。いつごろかも分かりません。見ないままに卒業を迎えることだってあるでしょう。
 心に揚がる「連凧」のことを「なかま」と言います。「仲良し」とはまた違って、言葉で言うのは難しいのですが、ぬくもりがあってほっとできるような時間と空間が広がっています。ぼくは、きみたちと一緒にこの時間と空間を見たいと思います。

おうちの方へ
 定期の家庭訪問が終わりました。ご協力ありがとうございました。子どもたちは、多くの人の思いや生活を小さなランドセルに詰め込んで登校しているんだと改めて感じました。私やクラスに温かいまなざしを注いでいただいていることをとてもうれしく思います。
 この1か月の生活や家庭訪問を踏まえて、1年間の学級目標を立てました。「凧」と「連凧」は、「個」と「集団」の課題をシンボル化したものです。「個」については、全体的に線の細さを感じています。「しっかりとした『凧』」をめざす中で、人間の根っこの部分を太くたくましいものに鍛えたいと思います。6年生のスタートを歓迎してくれた子どもたちを、「このクラスでよかった」と言って卒業させてやることが、私の仕事だと自らに課しています。そんななかま集団を育てることが、「心に『連凧』を揚げる」ということだと考えています。
 どうか知恵と技と体力を貸してください。

 

キャッチコピーが子どもたちのなかに像を成してきたら、それに向かう具体的課題を提示します。

具体的課題は毎日の学習になかに在ることもあるし、学校行事のなかに在ることもあります。もともとあった課題を学級目標の具体的課題として関係づけることもあるし、意図的に課題となる場面を設定することもあります。

Repost: 教師入門④ ~歩き始めた先生たちへ~

2021年1月23日、ブログ「教育逍遙」は開設から満1年を迎えました。

この間、週5回の投稿を基本に265本の記事を公開してきました。

今は幾人もの方に読んでいただいていますが、開設当初はほとんど認知されることはありませんでした。その一方で、開設に至った「思い」は初期のブログに凝縮されていました。

開設から1年を機に、初期の記事を再掲し、これから教壇に立つ方や教壇に立ってまだ日の浅い方にお届けしたいと思います。

 

 

君ひとの子の師であれば

 

 ーー君ひとの子の師であれば
    とっくに それは ごぞんじだ
    あなたが 前に行くときに
    子どもも 前を向いて行く。
    ひとあし ひとあし 前へ行く。

 

あまりにも有名な、故・国分一太郎さんの1951年の著書『君ひとの子の師であれば』の巻頭のことばです。若い頃にこの本に出会って、最初のフレーズは何かの拍子に今も口を突いて出てきます。

しかし如何せん古い本だしなあと思っていたら、2012年に復刻版が出ていました。(初版は1951年に東洋書館から出て、1959年に新評論の新書になりました。私が持っているのは500円の新書です。いずれも絶版になっていましたが、2012年に新評論から復刻版が出ました。2420円といささか高価です。)

まあ今も需要があるようです。ならば、その本の中から「誕生日」という一文を紹介したいと思います。

 

  誕生日
……4月になったら、新しい受け持ちになった子どもたちの誕生日を、忘れずに記録しましょう。日記やポケット・ダイアリーの、それぞれの日付のところに、「だれそれ生まる」とかきこむのです。4月12日、佐藤健太郎生まる、5月3日、進藤ヒデ子生まる、5月25日、山田一郎、鈴木春子生まる、というように。妻や子どもや、きょうだいのあるひとは、それもいっしょに。
 そうして、どうするというのでしょうか。
 4月12日の朝、教室にはいる前に、かならず、その豆手帖をひらきましょう。
「おお!あのはずかしがりやの佐藤健太郎生まるか!」
 教室にはいって、朝のあいさつが終ったら、
「きょうは、佐藤健太郎君が、この世のなかに生まれた日ですね。佐藤健太郎君のいのちのはじまりの日ですね。みんなでお祝いしてあげましょう。さあ、おめでとう。手をうって。」
と、パチパチ、でこぼこ顔で、はずかしがりや、まともにこっちもむかれない、その佐藤健太郎を祝福してあげましょう。
 たとい、そのクラスでは、その月誕生の人びとのため、まとめて祝ってやる誕生会といったものが、自主的におこなわれていたとしても、その日はその日で、教師のまごころを、簡単に示してやりましょう。1、2年ぐらいなら、かねて用意の造花でも、その日生まれの子どもの胸には、その日いちにちさしてあげてもよいでしょう。
……
……これは、ひとりひとりのいのちを、かけがえのないものとしてだいじにする、わたくしたちの人間教育からいっても、たいせつなことだと思われます。日本国の象徴である天皇の誕生日を祝うことよりも、もっともっと、みぢかなことだと思われます。
 あなたはお気づきになっていませんか。
 4月はじめは、なんど、子どもの生年月日を、帳簿やカードや紙片にかきつけることでしょうか、……。
 ひとのいのちを、ことのほか大切にするわたくしたちは、こんな生年月日の数字をも、たんなる数字ではないとりあつかいをしたいと思います。
 まして、その子が、ガリレオやマダム・キュリーと同じ日の生まれだというようなときには、ガリレオキュリー夫人のお話をして、うんとはげましてやりましょう。

 

1951年と言えば、戦後すぐのころです。今とは何もかもが違いますが、子どもを育てるという営み、教師のありようなど本質的なことは不変です。「不易」と「流行」で言えばまさに「不易」中の「不易」の部分です。時代を超えた若い教師へのメッセージです。ご一読を。

 

普段持ち歩いている諸控えのノートでもいいです、スマホのカレンダーアプリでもいいです。新しく受け持つクラスが決まったら、一人ひとりの子どもの誕生日を書き込みましょう。

偉大な先輩に「まねぶ」(「真似ぶ」は「まなぶ」の語源とも)には、まず「真似る」ことから始めるのがいちばんです。

 

 

子どもの名前を呼ぶ時は「○○さん」?「○○ちゃん」?それとも呼び捨て?

 

あなたは、子どもの名前を呼ぶとき、どうしていますか?

 

子どもの名前の呼び方には、大別して3パターンあります。


①「○○さん」「○○くん」と呼ぶパターン

②「○○ちゃん」と呼ぶパターン

③呼び捨て

 

私は、基本的には①の「さん・くん」付けであるべきだし、授業中については絶対①でないといけないと思っています。

それは子どもの人格を認め、教師と子どもの間の適度な距離感と緊張感を担保するためです。授業が授業として成立するには、この適度な距離感と緊張感が必要なのです。

なお、男の子を「くん」と呼ぶか「さん」と呼ぶかは、地域や学校の事情に委ねたいと思います。さん付けに向かえばいいなと個人的には思いますが、職場でひとり突出しても詮無いことですので、ここでは議論しません。


②の「○○ちゃん」付けは、休み時間なんかであれば、子どもたちとの関係性の中であってもいいと思います。ただし、授業中はやめてもらいたいものです。たとえ低学年であってもです。私的にはだらしない授業に感じます。


③の子どもを呼び捨てにするのは、絶対ダメ。論外です。

呼び捨てで教師の威厳が保てると信じている教師もいるみたいです。逆に、呼び捨てにすることで子どもとの距離が近いと思っている教師もいるようです。そんなとんでもない勘違い教師が現実にいるのです。そんな御仁の人権感覚を疑いたくなります。

子どもは教師の従属者でもありませんし、友だちでもありません。


さらに、とりわけ最悪だと思うのは、②と③を混在させ、子どもによって使い分けるパターンです。

使い分けている「基準」は何でしょうか。

私は、そこに差別的な匂いを感じます。呼ばれ方で先生との親密さを感じている子がいるとすれば、同時にそのことを依怙贔屓だと感じている子もいることを知らなければなりません。

 

たかが呼び方、されど呼び方。1日に何回となく口にする言葉だからこそ、しっかり考えたいものです。

 

 

教室は「ジム」か「ホーム」か

 

子どもにとって教室は「ジム」でしょうか? 「ホーム」でしょうか?

 

「ジム」というのは“鍛える所”、「ホーム」というのは“ホッとできる所”という意味です。

 

教育の場では、学校を「ジム」に、そして家庭を「ホーム」に例えて、両者の役割や連携を語られることが多いです。

 

教室が「ジム」か「ホーム」かなんて自明の理、にも拘わらずかくの如き表題に至ったのにはワケがあります。

結論から言うと、現在の私は、子どもにとって教室は「ジム」であると同時に「ホーム」でもあると考えています。


いつの頃からか、家庭が子どもにとって必ずしもホッとできる場所ではなくなってきました。

親の前でいい子を演じる一方、学校で崩れてしまう子がいます。塾や習い事に追われ、学校が休憩場所になっている子がいます。さらには、親になりきれない親もいます。

最初は稀であったものが、今や珍しい事例ではなくなりました。

家庭と学校の役割と言うは易いが、親の価値観は学校第一で揃っているわけではありません。そうした時代の教室は、「ジム」と「ホーム」の両面を持つしかありません。

 

教室の「ジム」機能については述べるまでもありません。ここでは、「ホーム」としての教室を考えます。

 

「ホーム」としての教室を意識するようになって、私は、出勤するとできるだけ早く教室に行くようになりました。そして、夏場は窓を開けて涼しい空気を入れ、冬場は暖房を入れ電気を点けて子どもの登校を待ちます。教師用机のイスに座って本など読んでいるのが通常のパターンで、教室に入ってきた子どもに「おはよう」と声を掛け迎えます。…心がけて続けたのは、ただそれだけです。


子どもの頃、家に帰った時に明かりが灯っていた安心感、「ただいま」と言った時に「おかえり」と声が帰ってきた安心感を味わったことはないでしょうか。

私は、「おはよう」に「今日もよく来たな。おかえり」という気持ちを込めています。そこで何げない会話などで暫くの時間を過ごしながら、「ジム」に向かう態勢を整えているのです。

 

具体的なやり方は教師の数だけあってしかるべき。要は「ジム」だけの教室は子どもを追い込みかねないという問題意識を共有できるかどうかです。