教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 5月10日

5月10日 愛鳥の日

 

5月10日は「愛鳥の日(バードデー)」で、5月10日から16日までの1週間が「愛鳥週間(バードウィーク)」です。

1950年に環境庁(現在は環境省)が制定しました。

 

以下、「Wikipedia」より引きます。

アメリカ合衆国では1894年にペンシルバニア州オイル市の教育長のバブコック(Charles Almanzo Babcock)により、5月4日が「バードデー」(Bird Day)に定められた。

日本では、アメリカ人の鳥類学者のオリバーL.オースチン(Oliver L. Austin)の提唱により、1947年(昭和22年)4月10日に、「バードデー」が定められた。

4月10日は北の地方の一部はまだ積雪があるという理由で、のちに1ヶ月ずらし、5月10日とされた。

その後1950年(昭和25年)に、5月10日から16日までの7日間が「愛鳥週間」(バードウィーク)に定められた。

毎年この期間に「全国野鳥保護のつどい」が開催され、野生生物の保護に顕著な功績に対して「野生生物保護功労者表彰」の式典が行われている。2012年(平成24年)5月12日に新潟県長岡市で『里山と私たち~トキの野生復帰に向けて~』のテーマで、愛鳥シンポジウムが開催された。公益財団法人日本鳥類保護連盟により、1968年(昭和43年)から「愛鳥週間用ポスター原画コンクール」が開催され、2010年(平成22年)から愛鳥標語募集が行われている。

野鳥な活動が活発になるこの時期に、野鳥を通してそれを取り巻く環境の自然保護の大切さを知り広めていくことを目的としている。

 

この時期、ツバメの営巣を見かけることがよくあります。

前年の巣に戻ってくるツバメの不思議について、調べてみました。

 

ツバメは帰巣本能の強い鳥と言われます。

しかし、どうやって戻ってくるのかはよく分かっていません。

自分が育った場所の太陽の位置と今いる場所の太陽の位置のズレから巣の方向を知るという説。

地球の磁場をとらえて(磁気を利用して)巣の方向を知るという説。

いずれにしてもすごい本能です。

 

ここからは「ツバメ観察全国ネットワーク」HPより抜粋して紹介します。

古巣に戻ってきたのは、去年と同じツバメ夫婦なの?
2014年のバードリサーチ大会で福岡賢造さんが発表して下さった、大阪府河内長野市の商店街で行った足環調査の結果によると、翌年も同じ商店街に戻ってきた ツバメは約4割で、さらにその中でも4割程度が前年と同じ巣に戻っていたそうです。そうすると、オス・メスのどちらかが同じ巣へ戻ってくる率は15%くら いになります。商店街に帰還したツバメのうち同じ巣に戻らなかった6割がどのくらい離れた場所で営巣したかはお聞きしなかったのですが、商店街のどこかにラン ダムに戻っているのではなく、前年の巣の近くにやってくるのでしょう。

同じ相手と夫婦になるの?
新潟県上越市で新井絵美さんと長谷川克さんが行った調査では、前年のツバメ夫婦がどちらも無事に戻ってきたケース26組のうち、再び夫婦になったのは9組 だけでした。面白いことに「再婚」した9組はすべて、オスがメスより先か、オス・メス同日に調査地に到着したケースだったそうです。一方、メスがオスより 先に到着した場合は、別のオスと夫婦になってしまったそうです。

 

大阪市立自然史博物館」HPにある「Q&A」の欄には次のようにあります。

> Q1.ツバメの寿命は何年ですか?
 研究によって少しずつ違うのですが、一年間の平均死亡率は60-70%くらいです。とくに生まれて一年目の死亡率が80%前後ときわめて高いようです。単純に計算すると、平均寿命は1.5年くらいになります。もっとも野外で15年11カ月生きた例もあるそうです。野外では、捕食者に食べられて死んだり、食物が足らなくて餓死したりと、いろいろな理由でツバメは死にます。ここにあげた数字は、そのようないろいろな理由で死んだ結果なので、捕食者がいなくて食物も充分ある環境で飼えばもっとみんな長生きするものと思います。

> Q2.ツバメのペアはずっとかわりませんか?
 ペアの相手はしばしばかわり、ある研究によれば115ペアのうち、次の年も同じペアで繁殖したのは13ペア(11.3%)だけだったそうです。ただし同じ年の間に何度か繁殖を繰り返す場合は、つがいの相手は通常かわらないようです。

 

前年の巣に戻ってくるツバメ。

みんなが想像して期待しているほどでもないようです。

 

 

世界遺産学習 法隆寺(その11)飛鳥人の美意識(エンタシス)

鳥人の美意識(エンタシス)

 

7世紀終わりに再建が始まった法隆寺

693年ごろに、まず金堂が建造されました。

そのあと、710年ごろに五重塔が再建されたと思われます。

 

心柱が立ち、基壇ができあがると、いよいよ初層の建造です。

ウッディジョー」社の75分の1スケール法隆寺の基壇部分。

自作60分の1スケール法隆寺の基壇部分に心柱を立てたところです。心柱には直径12㍉の丸棒を使っています。

構造のところで詳しく書きますが、心柱は五重塔の建物とは接触していません。製作作業の邪魔になるので、完成まで抜き取っておきます。

 

基壇に礎石を置き、その上に柱を立てます。

礎石には2㍉厚の板、柱には直径8㍉の丸棒を使っています。縮尺をもどすと、12㌢と48㌢になります。

柱は全部で16本あります。

内側の4本を「四天柱(してんばしら)」と言います。この4本の間隔は、5層目まで変わりません。

外側の12本を「側柱(がわばしら)」と言います。本来、外から見える部分の柱となります。法隆寺の場合は、ある事情からさらに外側(上の写真で鉛筆線をつけたところ)に囲いがあります。

 

16本の柱は、円柱です。

伐採された木材は、木の心をさけて角材に製材されました。

建築の現場まで運ばれた角材は、墨付けをして八角形にしました。

八角形の柱にさらに墨付けをして、今度は十六角形にしました。このあたりまではもっぱらチョウナの仕事だったと思われます。

十六角形の角を落としながら、少しずつ円柱にしていきます。ヤリガンナが活躍したでしょう。

 

柱は「円柱」だと書きましたが、通常の円柱ではありません。柱の真ん中部分に比べて上と下の部分が細くなっているのです。

これは法隆寺回廊のものですが、右端の白壁を見ると、太さの違いが分かります。

 

なぜ、このようなカタチにしたのでしょう。

法隆寺』には、こう書かれています。

建物は柱が太いほど安定しますが、太すぎると、ぜんたいとの調和が保てません。また、柱のように大きな部材は目だつので、それじたい彫刻のようによい形にする必要があります。そこで、太い柱の上方を細め、上にのる部材と大きさのつりあいをとり、下方も細めにして、柱じたいの形をよくしたのです。

この柱のカタチは実用目的ではなく、「調和」「よい形」という見た目の問題によるものです。ここに飛鳥人(あすかびと)の美意識を見る思いがします。

 

このカタチ。

どこかで見たことがあります。

そうです。これは教科書で習ったギリシャパルテノン神殿の「エンタシス」です。

 

パルテノン神殿は、紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工しています。

古代ギリシャ建築の柱に施されたエンタシスは、ヘレニズム時代にペルシア・中国を経て東方に伝わりました。

中国や朝鮮の建造物にも見られるエンタシスが、仏教寺院建築とともに日本に伝えられたのでしょう。

パルテノン神殿の柱が、千年の時を経て法隆寺に蘇りました。

柱の1本1本に、大きなロマンを感じます。

 

きょうは何の日 5月7日

5月7日 世界エイズ孤児デー

 

「世界エイズ孤児デー」は、エイズ孤児問題への意識を高めることを目的に、2002年(平成14年)にアメリカ・ニューヨークで開催された国連子ども特別総会において制定されました。英語表記は「World AIDS Orphans Day」。

 

以下、エイズ孤児を支える国際協力NGO「PLAS(プラス)」のHPより引用します。

エイズ孤児とは?


世界のエイズ孤児、その数1,220万人
AIDS orphan(「エイズ孤児」)とは、「エイズによって片親もしくは両親を失った18歳未満の子ども」をいいます。

日本語で孤児という言葉は両親を失った子どもを一般的にさすので、「遺児」と置き換えた方が私たちの感覚に近くなるのかもしれません。
また、すべてのエイズ孤児がHIV陽性であるように思われるかもしれませんが、母子感染などにより親から感染している可能性はあるものの必ずしも感染しているとは限りません。

UNAIDS(国連合同エイズ計画)によると、エイズ孤児は全世界に1,220万人いるとされています。
うち、多くがサハラ砂漠の以南のアフリカ地域におり、PLASが活動するケニアウガンダエイズ孤児の数は各国50万人以上にのぼると推計されています。

※UNAIDSの統計(2018年7月発表)より。推計値には幅があり、大きく見積もられた人数は1,560万人となっています。

 

複雑な問題
では、エイズ孤児の何が問題なのでしょうか。

感染による健康上の問題はもちろん、大きな問題の一つには偏見と差別が挙げられます。
本人の感染にかかわらず、親がエイズで亡くなったことで差別を受け、引き取り手が現れず行き場を失ったり、自尊心を持てず精神的な不安定を抱えるエイズ孤児が多くいます。

また、子どもの学校中退という根深い問題もあります。
治療薬の普及によって両親を失うケースより片親を失うケースのエイズ孤児の割合が増加傾向にありますが、その場合、稼ぎ手を失って家庭が貧困に陥ることで学校に通い続けることが困難となってしまうのです。

ウガンダでは小学校教育は原則無償化とされていますが、実際は制服代や進級テスト代を家庭が負担しなくてはいけません。これを払うことができず、小学校を中退する子供は2人に1人とも言われています。
そして学習機会を逸失したまま大人となり、今度はこれによって就業機会を得られず、貧困の連鎖に陥る―

このように、エイズ孤児の問題は様々なことが複雑にからみあっているのです。

 

人権の課題としては異なりますが、部落差別に起因するかつての「貧困の連鎖」と構造としては同じです。決して遠くの問題ではありません。

 

 

世界遺産学習 法隆寺(その10)飛鳥人(あすかびと)の道具

鳥人(あすかびと)の道具

 

法隆寺五重塔が作られたころの道具のはなしです。

 

木を伐る

ヨキ(マサカリ)

木はヨキ(マサカリ)を使って伐採しました。

さらに、伐った原木の丸太は、クサビを打ち込んで2つに割りました。

柱の心に木の心があると割れやすいので、心をよけるために二つ割りにしたのです。

たとえば金堂の直径66㌢の柱だと、直径1.5㍍近い大木が必要になります。

気が遠くなるような作業です。

 

製材する

ヨキ(マサカリ)

ヨキではつって(少しずつ削ることを言います)、角材にしました。

 

部材に仕上げる

墨壺、墨サシ

墨壺は、木材その他の材の表面に、長い直線を正確に引くのに使用します。壺糸の一端を”かるこ”に結び付け、他方を糸口から墨汁を蓄えた池に通し、糸巻車に巻き取ります。墨汁は真綿等に含ませて池に入れ、壺糸には絹糸を使用します。
使用法は、左手に墨壺を持ち、材に”かるこ”の針を刺して壺糸の一方を固定します。必要な長さの糸を繰り出したところで、親指で車の回転を止め、人差指で糸を必要な位置に押えて緊張させ、右手で糸をまっすぐつまみ上げて放します。こうして糸の弾力性を利用することで、材料の起状にかかわらず正確な直線を引くことができます。
墨さしは、一端がヘラ状、反対側が細い棒状になっています。墨汁を付けて、ヘラ状の側で線を、棒状の側で記号、あるいは文字を書くのに使用します。墨壺、朱壺と共に用いられます。
材質は竹でできています。ヘラ状の側は巾約10〜15mm、先端から約1〜2cmの深さまで縦に薄く割り込みをいれ、ヘラ先の部分を斜めに切り落としています。この部分を曲尺などに沿わせて線を引きます。熟練者は、割り込みを30〜40枚位に極めて薄くいれるといいます。             (「竹中大工道具館」HPより)

「八郷の日々」というHPに、1879年(明治12年)に奈良の東大寺南大門が修復された折に梁の上で見つかった墨壺が紹介されています。

墨壺と墨サシは現代も使われています。

 

曲尺(かねじゃく)

法隆寺』では「曲尺(かねじゃく)」として紹介されていますが、「さしがね」とも言います。直角をはかる道具で、現代も使われています。

 

ノコギリ

この時代のノコギリについては、あまりよく分かっていません。

「奈良文化財研究所」HPの記事を紹介します。

謎多き木材加工技術

 飛鳥時代から奈良時代にかけては、寺院や宮殿、都の造営が相次ぎ、まさに建設ラッシュの時代でした。そこでは膨大な量の木材と、それを加工するためのさまざまな道具が使われたことでしょう。

 ところが不思議なことに、これまでに藤原京平城京からは、ほとんど大工道具が出土していません。古代の大工道具については、不明な点が多いのです。

 そうしたなかで、明日香村にある石神遺跡からは、7世紀後半のほぼ完全な形ののこぎりが出土しています。木製の柄に、片側のみ鋸歯(きょし)(ぎざぎざの刃)がある鉄製の刃を装着した長さ45センチほどののこぎりです。しかし、刃の長さは25センチほどしかなく、これではとても太く大きな木を切ることはできません。

 板を切り出す大型ののこぎりの登場は、室町時代まで待たねばなりません。

 古代の木材加工の技術は、まだよくわかっていませんが、きっとたいへんな労力と時間を要したことでしょう。古代の遺跡から大工道具がなかなか出土しないのは、これらの道具が大事に使用され、大切に保管をされていたからかもしれません。

 

このころのノコギリは、木材の繊維と垂直方向に切る横びきノコギリです。

「現場にひとつふたつしかなかった」らしいと、『法隆寺』にあります。それも刃の長さが25㌢ほどだったとしたら、どのようにして大きな部材を切り出していたのでしょう。

なお、木の繊維と平行に切る縦びきノコギリか登場するのは室町時代になってからです。したがって、縦方向の分割はヨキとクサビを使って行うしかありません。

 

釿(チョウナ)

部材の表面をはつる荒削りには、チョウナを使いました。「チョウナ」は「チョンナ」とも発音され、漢字では「釿」のほか、「錛」、「手斧」と表記します。

写真の左からチョウナ、ノミ、ヤリガンナ。

 

槍鉋(ヤリガンナ)

槍鉋(ヤリガンナ)は、木の繊維方向に表面を削って仕上げる道具です。

現在使われている台ガンナは、室町時代になってから登場します。

糸井重里さんの「法隆寺へ行こう!」に次のような記事があります。

小川    これが、
西岡棟梁(とうりょう)の使っていた
槍鉋(やりがんな)です。

糸井    小川さんの師匠の、
法隆寺宮大工・西岡常一棟梁の槍鉋。
すごいですね、この刃……
ヒゲが剃れちゃいそうです。
小川    縦に引くノコギリは、
室町時代にならないとできない。
その前は木をバーンと割ったから
削る面がデコボコで、
今の鉋(かんな)みたいでは削れないんだ。
斧でハツって、手斧でならして、
最後に槍鉋をかけた。

木に刃をつけて
削るようになるのは室町以降だ。
能率がいいから
槍鉋は使われなくなってしまったんだけれども、
室町以前の建物を修復する時には、
これでないといい削り肌が出ない。

 

鑿(ノミ)

ノミは現在も使われている大工道具です。

穴をあけたり、削ったり、ノコギリの代わりに材を切断したり、ヨキのように材を割ったりしました。ノミが果たした役割は、今よりもずっと大きかったようです。

 

鐔鑿(ツバノミ)

ツバノミは、釘を打つ位置にあらかじめ打ち込んで、ツバを叩いて抜き取ります。この穴に釘を入れて打ち付けます。

今では船大工が使うくらいですが、当時は必需品だったようです。

建てる

水ばかり

いわゆる水平器です。

上側に溝を掘った厚い板で、溝の部分に水を張って水平を求めます。

 

下げ振り

垂直を見るための道具です。

糸に重り(石)をつけて吊り下げます。

 

 

いかるがの里に立つ法隆寺を見て、つくづく思います。

よくもまあ、この程度の道具でこれほどのものが作れたものだと……。

 

きょうは何の日 5月4日

5月4日 みどりの日

 

みどりの日」は、国民の祝日の1つです。

国民の祝日は、「国民の祝日に関する法律」に定められています。

 

国民の祝日に関する法律」は、昭和23(1948)年7月20日に施行されました。

みどりの日」は、平成元(1989)年2月17日の法改正により制定されました。

 

法律第五号(平元・二・一七)

  ◎国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律

 国民の祝日に関する法律(昭和二十三年法律第百七十八号)の一部を次のように改正する。

 第二条天皇誕生日の項を次のように改める。

  みどりの日 四月二十九日  自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。

 第二条勤労感謝の日の項の次に次のように加える。

  天皇誕生日 十二月二十三日 天皇の誕生日を祝う。

   附 則

 この法律は、公布の日から施行する。

 

1989年1月7日に昭和天皇が亡くなられ、それに伴って天皇誕生日が平成天皇の誕生日(12月23日)に移行します。その際に、昭和天皇の誕生日を祝日として残す措置がとられました。それが「みどりの日」です。

 

なぜ「みどりの日」かということですが、「Wikipedia」に次のような記載があります。

 

みどりの日」は、小渕恵三官房長官の私的諮問機関で有識者らによる「皇位継承に伴う国民の祝日に関する法律改正に関する懇談会」で、「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなむ名がふさわしい」とする大勢の意見により定められた。ほかにも「科学の日」など昭和天皇の博識を頂く意見が多かった。

 

いずれにしても、昭和天皇と深く関係する祝日として制定されたことは確かなようです。

 

1989年に制定された「みどりの日」は、2005年(平成17年)の祝日法改正により2007年(平成19年)以降は、祝日に挟まれる平日で「国民の休日」であった5月4日へ移動し、4月29日は「昭和の日」となります。

 

国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律

法律第四十三号(平一七・五・二〇)

  ◎国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律

 国民の祝日に関する法律(昭和二十三年法律第百七十八号)の一部を次のように改正する。

 第二条みどりの日の項を次のように改める。

  昭和の日 四月二十九日 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。

 第二条憲法記念日の項の次に次のように加える。

  みどりの日 五月四日 自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。

 第三条第二項中「あたるときは、その翌日」を「当たるときは、その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日」に改め、同条第三項中「日曜日にあたる日及び前項に規定する休日にあたる日を除く。」を「「国民の祝日」でない日に限る。」に改める。

   附 則

 この法律は、平成十九年一月一日から施行する。

 

4月29日を「昭和記念日」のようなものにしようという動きは当初からあったようです。それが「みどりの日」となったのは政治判断と言えるでしょう。

1999年に自公連立政権が誕生します。

2000年に改正法案が出されます。そして、2000年5月15日、森喜朗内閣総理大臣(当時)の「神の国発言」へとつながります。

神の国発言」というのは、神道政治連盟国会議員懇談会においてが行った挨拶の中に含まれていた「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々(=神政連関係議員)が頑張って来た」という発言をいいます。

そうした曲折があって、2005年の法改正となります。

 

「昭和の日」の誕生で、「みどりの日」は連休の隙間を埋めるための「国民の休日」であった5月4日に引っ越したわけです。

 

 

政治に翻弄された「みどりの日」の歴史はおとなの話。小学生の子どもに聞かせられるようなものではありません。

 

2007年より、4月15日から5月14日までを「みどりの月間」と定め、さまざまなイベントが行われています。以下、「林野庁」のHPより。

「みどりの月間」と緑の募金運動について(農林水産大臣談話)
  4月15日から5月14日までは、「みどりの月間」です。
  新緑がまぶしい季節を迎える中、この「みどりの月間」は、特に国民が「みどり」を意識しやすい時期でもあります。
  農林水産省といたしましては、多くの人々に身近な緑や森林に親しんでもらえるよう、この時期に「みどりの感謝祭」等の緑化行事を開催するとともに、「緑の募金でふせごう地球温暖化」をテーマに緑の募金運動を重点的に展開します。
  緑の募金は、国民の自発的な森林整備活動を推進するものであり、直接森林づくりに参加する機会がない方も、緑の募金運動に参加することによって森林を支えることができます。
  地球温暖化生物多様性などの環境問題が、人類共通の課題となっている今日、私たちの暮らしを支える、かけがえのない緑や森林を守り育てるため、緑の募金活動が全国各地で積極的に展開されることは、大変に意義深いものです。
  農林水産省といたしましても、緑や森林を守り育て緑豊かな国土の形成・保全に積極的に取り組んでいるところであり、多くの国民の皆様のご理解とご協力をお願いいたします。

                         平成22年4月15日  
                      農林水産大臣  赤松  広隆

 

とにかく季候もいいし、緑のきれいな季節です。

純粋に「地球温暖化生物多様性などの環境問題」を考えるきっかけの日と位置づけるのがいいのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

世界遺産学習 法隆寺(その9)心柱②

心柱②

 

法隆寺五重塔では、舎利の上、地表から約1.2mあまり下に心柱を受ける礎石(心礎=しんそ)が据えられています。

心礎の上に心柱が立つと、舎利は開封できなくなり、心柱が釈迦を象徴するものとなります。

 

「心柱はいちばん太い根本で3尺(約90㌢)ちかくもあり、高さは100尺(約30㍍)あまりにもなるので、八角形の2本の部材をつないでつくりました。」と、『新装版 法隆寺』(西岡常一・宮上茂隆著、草思社刊。以下、『法隆寺』と記す)にあります。

 

2本つなぎにした理由は、直径90㌢高さ30㍍という用材の問題と、それを垂直に立てる技術の問題によります。

 

2本に分割しても1本の高さは約15㍍あります。

この柱をどのようにして建てたか、『法隆寺』は次のように推測しています。

 まず、滑車をてっぺんにとりつけた足場用の丸太を、心礎のある穴の外に立てます。心柱は、根本(ねもと)のほうを心礎の上において横たえます。滑車にかけておいたナワの端を心柱の上のほうにゆわえ、ナワのもういっぽうの端を引いていくと、心柱は少しずつあがっていきます。心柱があるていど斜めに立ちあがると、あとはかんたんで、心柱のてっぺんに前もってとりつけておいたなん本ものナワを、いろいろな方向から引いて、心柱を垂直に立てます。 ナワは杭にゆわえて、固定します。

法隆寺』には穂積和夫さんによるとても丁寧なイラストが掲載されています。

 

なんと、滑車を使っています。

下半分の心柱を垂直に立てた後、下から2.7㍍の高さまで粘土を巻いて固定しています。

地上1.5㍍まで盛り土をし、これを基壇としました。つまり、舎利までの地下1.2㍍とあわせて2.7㍍が土に埋まっています。

このとき、心柱の上半分も下半分に縛り付けておいたようです。

そして、五層目まで組み立てた段階で、五層目の屋根の上に櫓を組んで滑車を使って引き上げました。

 

法隆寺式心柱の欠点は、土に埋まった部分が腐食することです。

実際、1926(大正15)年に心礎の調査が行われたとき、「心柱の下に空洞(腐食による)を発見。空洞は径約1m深さ2mで、その下に心礎があり…」と報告されています。

のちに建造された他寺の五重塔には、心柱が二層目より上だけ、上部から鎖で吊り下げられているというものもあります。

 

きょうは何の日 5月1日

5月1日 日本赤十字社創立記念日

 

1877年(明治10年)の5月1日、西南戦争の負傷者を救おうと、元老院議員の佐野常民らが博愛社の設立を請願しました。

日本赤十字社の前身、博愛社の結成にちなみ、日本赤十字社はこの日を創立記念日としています。

 

「雑学ネタ帳」の記事より。

日本赤十字社創立記念日(5月1日 記念日)
1877年(明治10年)のこの日、佐野常民(さの つねたみ1822~1902年)、大給恒(おぎゅう ゆずる1839~1910年)らが赤十字社の前身となる「博愛社」を設立し、西南戦争の負傷者を政府軍・西郷軍の区別なく救護した。

設立の際、政府に申請を出したが、敵味方の区別なく救護を行う博愛社の精神が理解されず、許可されなかったため、有栖川宮征討総督に直接請願書を提出してやっと政府の許可が下りた。 1886年明治19年)11月15日に日本政府がジュネーヴ条約(赤十字条約)に参加したことに伴って、翌1887年(明治20年)5月20日に「博愛社」から「日本赤十字社」と改称し、万国赤十字社同盟に加盟した。

日本赤十字社の発祥の地について
西南戦争において最大の激戦地となったのは、現在の熊本県植木町田原坂たばるざか一帯であり、日本赤十字社博愛社)の発祥の地は、熊本であるとされる。熊本県玉名市岩崎にある玉名女子高等学校の敷地内に「日本赤十字社発祥之地」という石碑が建てられている。この場所は、西南戦争の時に臨時の県庁が置かれていた場所である。

一方、博愛社の本拠は、現在の東京都千代田区富士見2丁目にある東京逓信病院の付近にあった桜井忠興(さくらい ただおき1848~1895年)邸であり、この場所に「日本赤十字社発祥地」という木碑が千代田区によって建てられている。

 

日本赤十字社」のHPより。

日本赤十字社 創立者(初代社長)佐野常民
佐野は、大阪の「適塾」の緒方洪庵より医術を学び、「医は仁なり」(身分に関係なく患者は平等に診るのだ)と教えられました。その後、1867(慶応3年)佐賀藩士としてパリ万博の派遣団に加わり、現地で赤十字の展示を見た佐野は、「敵味方の区別なく、救う」という赤十字精神に感動しました。人道精神が世界共通であることを実感した瞬間です。

1877年2月に西南戦争が勃発しました。明治政府軍と薩摩軍の激しい戦闘が繰り広げられ、両軍ともに多数の死傷者を出しました。この時、この悲惨な状況に対し、佐野と大給恒の両元老院議官は、救護団体による戦争、紛争時の傷病兵の救護の必要性を痛感し、ヨーロッパにある赤十字と同様の救護団体を作ろうと思い立ち、奔走します。しかし、その実現には時間が掛かることが判ると、佐野は、戦場で負傷する人々を一刻も早く救護したいと考えました。ついに征討総督有栖川熾仁親王に直接、博愛社設立の趣意書を差し出すことに意を決し、1877年5月、熊本の司令部に願い出ると、有栖川宮熾仁親王は英断を以てこの博愛社の活動を許可されました。救護活動の許可を得た博愛社の救護員は、直ちに現地に急行し、官薩両軍の傷病者の救護に当たりました。1877(明治10年)に設立された博愛社は、1886(明治19年)に日本政府がジュネーブ条約に加入すると、翌1887年に名称を日本赤十字社と改称し、現在に至ります。

 

 

ちなみに、「世界赤十字デー」は5月8日です。

※「世界赤十字デー」については5月8日の項で書きます。