つい先日から、知人に頼まれて中2の子の数学を見ています。彼は、交通機関を乗り継ぎ30分以上かけて私の家にやって来ます。
最初の顔合わせで、これまでの様子を聞きました。
1年の「正の数・負の数」は? --全然大丈夫です。(という日本語は全然大丈夫じゃないですが)
「文字と式」は? --大丈夫です。
「方程式」は? --大丈夫です。
「比例と反比例」は? --そのあたりからちょっと分かりません。
「図形」は? --ダメです。
定期テストで何点くらい取ってる? --十何点くらい…
そして迎えた第1回。
中2数学の最初の単元は「式の計算」です。
その冒頭。
「単項式と多項式って分かる?」 --「はい」
「それじゃ単項式と多項式を見分けるポイントは?」 --「それは、…(沈黙)」
第2回は部活が入ったというのでオンラインで行いました。
LINEで送られてきた画像で添削して、こちらからはホワイトボードアプリの画面を転送します。分からないという問題はヒントを与えて、「再提出」をしてもらいます。
なかなかおもしろい塾のカタチです。
LINEの画像から見えてきたことがあります。
空白のままの問題は、明らかにいま習っている「式の計算」の内容を理解していないことの表れです。
間違いの中には不注意による単純なミスもありました。
しかし、間違いの多くはミスでは済まされないものでした。「式の計算」は、1年の「正の数・負の数」や「文字と式」の延長上にある単元です。間違いは、負の符号の処理、文字式の加減など1年の学習内容そのものでした。
彼が1年の学習内容を理解していないのは予想の範囲内のことです。
しかし、困ったなあと思います。
私が困ったなあと思うのは、彼が1年の内容を理解していないことではなくて、理解していないことを自覚していないことです。
「正の数・負の数」は「全然大丈夫」、「文字と式」は「大丈夫」と彼は自己評価しているのです。ところが実際は、できないのです。
「単項式」と「多項式」だって案の定、「わかる」というのに両者を分ける問いを解くことが「できる」力はありませんでした。
回復には時間がかかりそうです。
「わかる」ことと「できる」ことの間には、大きな川が流れています。「わかる」を「できる」に引き上げ高めていかなければなりません。
長らくそう考えていました。
でも、本当にそうなんでしょうか。
「できる」ようになったことを「わかる」というのであって、彼の「大丈夫」はただ「わかったつもり」になっているだけではないのか?
そう言えば、教室のあの常套句。
「わかりましたか?」
これほど空疎な問いかけはありません。
子どもの「はーい」は条件反射のようなもの。
教師のマスターベーションですね、あれは。
「わかったつもり」を超えるには…
私は学級通信の原本の裏紙を半裁にしてメモ用紙に使っています。なんという偶然、ちょっとしたヒントになるものが出てきました。
それは4年生の通信で、わり算の筆算を指導していた時期のものでした。
練習問題を終えた児童に、「わり算の筆算の手順を初めて習う子にもわかるように言葉で説明するように」と指示したようです。何人かのノートが紹介してありました。
「わかる」というのは、この例でいえば「筆算の仕方」を普遍化できることであり、それは普遍化された「筆算の仕方」を使って問題の答えを導き出すことが「できる」ことと一体のものです。
ベッタリ貼り付いた「わかったつもり」シールを剥がすのは、根気の要る作業です。剥がす側にとっても、剥がされる側にとっても…。
教室で指導中の先生がた、子どもたちを「わかったつもり」のまま帰宅させない授業をお願いしますね。