教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

人権教育としての情報教育③ ~東京・町田の女児自死に思う~

情報モラル教育の土台は人権教育です。

 

人権教育については、文部科学省に設置された「人権教育の指導方法等に関する調査研究会議」が、2008年3月に「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]」を出しています。

そこには、「各学校においては、校長のリーダーシップの下、教職員が一体となって人権教育に取り組む体制を整え、人権教育の目標設定、指導計画の作成や教材の選定・開発などの取組を組織的・継続的に行うことが肝要である。」とあります。
([第三次とりまとめ]の詳細は、文科省の人権教育=「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]」を参照ください。)

つまり、全国津々浦々の学校には、人権教育指導計画なるものがあることになっています。

 

ところが「人権」という教科は存在せず、時間割に「人権」の指導時間枠もありません。したがって、計画の作られていない学校や計画が画餅になっている学校があります。

 

私が以前勤務した学校で、2004年度に全学年の年間計画を作って提案したことがあります。その時のカリキュラムのコンセプトと、年間計画のうちこの稿で取り上げている情報モラル教育の土台となる部分を紹介します。

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情報モラル教育の土台となる領域は、主として「人権の基礎」です。

年間指導計画から、該当領域を抽出します。

 

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2004年度の計画ですから、2008年度の情報モラル教育の計画以前のものです。当然、情報モラルを意識していません。それにもかかわらず、十分に情報モラルの土台に資するものであることを読み取っていただけると思います。

 

大切なのは、こうした人権教育のカリキュラムとそれにつながる情報モラル教育のカリキュラムが有機的に機能しているということです。

 

いじめは許されるものではありません。

しかし、端末の扱いだけではいじめ行為をなくすことはできません。いじめの加害行為は許されるものではありませんが、教育の場においては加害児童もまただいじな教育対象なのです。

悪口の書き込みに至った子らの背景(「闇」の部分)にもまた、教育の課題があります。

たとえばそれは「自己肯定感(セルフエスティーム、自尊感情)」の問題であったり、「コミュニケーション力」の問題であったりします。(生活背景からくる課題は、ここでは除外しています。)

これもまた、情報モラル教育につながる一方の太い糸なのです。

 

 

私が教職を離れた後に、道徳の教科化がありました。

2004年度の私の年間計画では、人権の課題を「道徳」の時間に指導することを想定したものがいくつもあります。いま、「道徳科」の中でそうしたことを指導するのにどれほどの時間確保ができているのでしょう。そもそも指導計画の中に、課題として入っているのでしょうか。

それは想像に難くなく、暗澹たる思いになります。

 

全国津々浦々の学校には、「人権教育指導計画」なるものがあります。

全国津々浦々の学校には、「情報モラル教育指導計画」なるものがあります。

全国津々浦々の学校には、自校の教育活動に対する「評価」文書が「紀要」「総括」などの名であります。

あることになっているので、あるはずです。

 

現職の先生方。

東京・町田の「事案」は、「他人を傷つけたり、嫌な思いをさせることを、ネット上に書き込まない」ということを指導するだけでは不十分です。

これを機会に自校の人権教育と情報モラル教育の指導計画がどうリンクしているのか、そしてどれほど実際の指導が行われているのか、子どもたちはどう育っているのか、課題は何なのかを点検してください。

そして、不十分な実態があるならば、これを機会に構築してください。

人権教育の視座なくして、情報モラル教育などないのです。

 

保護者の皆さん、学校評価活動に関わる地域の皆さん。

関係する学校に対して、人権教育と情報モラル教育の指導計画の開示と、実施状況の説明を求めてみてください。

保護者も含めてアンケート等による学校評価活動に参画している人は、その学校の「関係者」です。「関係者」がその学校の教育の内実に関心を寄せることは、真っ当な行為です。

真っ当な声が、学校の真っ当な教育を後押しするのです。

 

 

今回の「事案」は、あってはならない不幸な「事案」です。

自死した女児の命の重さに応えるためにも、学校現場とそれを取り巻く広範な人々の間で本質的な議論が展開されることを願っています。