バス通学をしているAさんは、スクールバスの中に荷物を置き忘れることが多いと聞きました。
とくに金曜日の下校時と、月曜日の登校時には、決まってと言っていいほど置き忘れるようです。
金曜日の下校時と、月曜日の登校時に多いというのには、わけがあります。体操服袋、給食袋、上靴袋、それから時にはお道具箱袋も。週末と週はじめは袋だらけなのです。Aさんは、その1つ2つをバスの座席に残してくるのです。
Aさんは、特に配慮が必要な子として位置づけられています。ですから、学校も家庭も注意を払ってはいるようですが、この置き忘れは一向に収まりません。
この話を聞いた時、ふと思いました。
大きな袋を1つ持たせて、その中に○○袋をすべて入れてしまえばいいのに…。
いくつもの荷物があるから、手から漏れてしまう荷物ができてしまうのです。1つにまとめてしまえば、注意はその1つにだけ向ければいいのです。
実際そうすることで、Aさんの置き忘れはほぼなくなるのですが、これってAさん向けの「特許」ではありません。
私はいま65歳です。これくらいの年になると、2つ以上の荷物を持っている時は、置き忘れがとても気になります。年を重ねるにつれ、注意力が散漫になっていくのでしょう。そんな自覚症状があるようになってからは、手に持つ物はなるだけ1つにまとめるように努めています。
時を同じくして、Bさんの話も耳にしました。
Bさんは連絡帳を書いて帰らないことが多く、その結果、宿題忘れが絶えません。
連絡帳のことは家でも強く言われているようだし、学校でも特に配慮が必要な子として位置づけられていて注意を払っているといいます。それでも、注意の網の目は漏れるわけです。
学校生活の節目、とりわけ家庭と学校の接点となる朝の時間と帰りの時間については、行動リストの「見える化」が有用だと感じます。
やるべきことをルーティン化し、チェックリストを可視化することで、連絡帳を書くことなどは解決できるはずです。
このルーティン化と可視化は、学校生活のさまざまな場面や学習の場面でも応用できます。そして、それによってBさんタイプの子だけでなく、多くの子が救われていきます。
AさんやBさんのような教育上の課題を、「特別なニーズ」と言っています。
「特別なニーズ」のもとは、1970年代に始まるイギリスでの取り組み「特別な教育的ニーズ(Special Educational Needs)」にあります。
その後、1993年に国連で採択された「障害者の機会均等化に関する基準規則」では、「障害のある人の特別なニーズ(the special needs of persons with disabilities)」の表記が用いられました。
さらに、1994年の「サラマンカ声明」では、教育における「インクル-ジョン」の原則を提唱したのですが、ここで基幹的に用いられる用語・概念が「特別なニーズ教育(Special Needs Education)」でした。
日本語としての「特別なニーズ」は、「サラマンカ声明」などに用いられている「Special Needs」の訳語です。
「特別なニーズ」に対して行われる教育的支援が、「特別支援教育(Special Needs Education)」というわけです。
(「特別支援教育」については、2020年5月の「障害児教育の系譜 ~特殊教育の時代~」「障害児教育の系譜② ~特別支援教育へ~」「障害児教育の系譜③ ~特別支援教を問う~」をご覧ください。)
「特別なニーズ」と言いますが、そのニーズが特別なものだとは私は思いません。強いて言うなら、「他の子よりも顕著に表れているニーズ」でしょうか。
つまり、たとえば注意力散漫などということは多かれ少なかれ誰にもある課題ですし、置き忘れなどに至っては年を重ねていけば万人の課題です。「他の子よりも顕著に表れているニーズ」のある子は、その課題を課題として見える化してくれていると言えます。
そう考えると、「特別なニーズ」に対する支援はAさん・Bさんにとどまらず、Aさん・Bさんをきっかけにして潜在的に同様の課題を持つ多くの子に及ばなければなりません。
Aさん・Bさんの「特別なニーズ」から、「特別なニーズ」のもつ「普遍性」ということを考えました。
教えること、育てることの道は奥が深いです。