教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

日本語探訪(番外5) 教育のことば「琴線に触れる」

「日本語探訪(番外)」では、元教員として気になっていることのいくつかを「教育のことば」として取り上げます。

今回は、「琴線に触れる」です。

 

琴線に触れる

 

「琴線に触れる」の読み方

きんせんにふれる

 

「琴線に触れる」の意味

「琴線」…感じやすい心情。心の奥に秘められた、感動し共鳴する微妙な心情。「琴線に触れる」(広辞苑

《琴線は、物事に感動しやすい心を琴の糸にたとえたもの》良いものや、素晴らしいものに触れて感銘を受けること。(大辞泉

 

「琴線に触れる」の使い方

片言でいう小児の言葉が、胸中の琴線に触れて、涙の源泉を突くことがある。(新渡戸稲造『自警録』1929年)

※子どものたどたどしい言葉であっても、人の胸の奥の心情を揺り動かし、感動の涙を誘うことがある、ということを「琴線に触れる」を使って表現しています。 

 

文化庁のページに、「琴線に触れる」に関して次のような記事があります。

平成19年度の「国語に関する世論調査」で,「琴線に触れる」の意味を尋ねました。結果は次のとおりです。(下線を付したものが本来の意味。)

〔全 体〕

(ア) 怒りを買ってしまうこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35.6%
(イ) 感動や共鳴を与えること・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37.8%
(ア)と(イ)の両方の意味で使う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1.4%
(ア),(イ)のどちらの意味でも使わない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・0.6%
分からない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24.6%

 全体では,本来の使い方である(イ)「感動や共鳴を与えること」と回答した人が37.8%,本来の使い方ではない(ア)「怒りを買ってしまうこと」と回答した人の割合が35.6%となっており,数字が接近しています。また,この言葉についての調査結果の特徴として,「分からない」と回答した人が多いことが挙げられ,約4人に1人が「分からない」と答えています。
 年代別に見ても,20代を除く全ての年代で,本来の使い方である(イ)と回答した人と,本来の使い方ではない(ア)と回答した人との割合は接近しており,その差は5ポイント以内となっています。また,「分からない」と回答した人の割合は,年代が上がっていくのに従って増える傾向にあり,60歳以上では3割の人が「分からない」と回答しています。
 「怒りを買ってしまうこと」という意味での用法が広がっている理由としては,「逆鱗(げきりん)に触れる」(「目上の人などの怒りに触れる」という意味。)という語との混同などがあるとも考えられるでしょう。また,「分からない」という回答が多いのを見ると,「琴線」が「琴の糸」であって,その琴の糸が人の心を感動させるような美しい音色を発することから,心の奥深くにある,物事に感動し共鳴しやすい心情の例えとして使われるようになったという経緯が理解されていないとも考えられます。その結果,「琴線」は元々の意味を離れ,何らかの感情を引き出すスイッチのような意味合いで使われるようになったのかもしれません。特に,形の似ている「逆鱗に触れる」という語に影響され,怒りという感情を引き出してしまうという意味で「琴線に触れる」を使う人が増えている可能性があります。

 

「琴線に触れる」の蘊蓄

私が「琴線に触れる」という言葉と出会ったのは、同和教育研究会の言語認識を扱う学びの場でした。

優れた文学作品や綴り方が子どもの心の糸を共振・共鳴させ、閉ざしてきた心の扉を開くというのです。私のつたない実践においても、何度かそんな場面がありました。

 

まさき(仮名)くんに届けたいと『五年四組のイカダ』(高科正信著)を読み聞かせしたときのことです。

最初の章を読んでいる時、まさきくんがこう書きました。

ぼくも石本章くん(本の中の登場人物)とおなじように、かえり道がとおくなったと思ったことが60回くらいありました。いやなことがあったり、なぐられたりしたときです。ぼくもとてももんくをいわれたり、いじめられたことがあるから、石本章君のきもちがいたいくらいわかります。(まさき)

 まさきくんは、自己表現することが極度にできない状態にありました。原稿用紙を前にして、1時間かかって名前さえも書いてないということもまれではありませんでした。そのまさきくんが、自分の思いを一気に書き上げたのです。

(詳細は、「かえり道がとおくなったと思ったことが60回くらいありました」~忘れ得ぬ子のこと①~をご参照ください。)

 

『しばてん』に取り組んだとき、まきさんとまさこさんが残した言葉です。

「秋祭りがくるたびに、村びとたちは、いなくなった太郎のことを思いだす。自分たちの心に、いつからか住んでいるしばてんのことを思いながら。」というラストシーンにおける「村びと」のひとりつぶやきです。

【まき】太郎にはほんとにすまないことをした。わたしらは太郎をうら切った。あの時のわたしらは、太郎の気持ちを考えなかったのよ。あの太郎の悲しそうな目が、心にやきついてはなれやしない。太郎は、なにも言わなかったけど、心の中はさけびたいほど悲しかったにちがいないわ。


【まさこ】わたしら、太郎を自分の都合のええようにばっかりしとったなあ。でも太郎はもんく一つ言わずに、わたしらを助けてくれた。長者さまの米倉を打ちこわしに行った時も、役人が来た時も……。役人が来た時、長者さまがどれほどひどい人だったかをきちんと言っとれば、あるいは……。役人に連れて行かれる時、きっと太郎は、わたしらのことあきらめていたんだわ。だから、「この村の人たち、みんなが米を食べたんだ」とは言わなかったのねぇ。

(詳細は「心の中はさけびたいほど悲しかったにちがいないわ」~忘れ得ぬ子のこと②~をご参照ください。)

 

こうした子どもの文章に触れたとき、教師である私の心も震えました。綴り方を読み合ったときにも、同じ感覚に包まれたことがあります。

 

「琴線に触れる」ような教材を提供するのは教師の仕事。そして、開かせた心の扉に「寄り添う」のもまた教師の仕事。--深くて、重くて、そしてやりがいのある教師の仕事。